カタネトコ

　気分ですよ気分！と言われてまあそうかと思ってはみたものの、楽しいには程遠い。ほんのり涼しさが戻ってきたとはいえ夜もまだ蒸し暑さが残り、喉を焼くアルコールに体温は上がり、つまり暑いのだ。
　隣の男は相変わらず涼しい顔をしているがそれはいつものこと。自分も顔に出すような真似はしないものの、纏わり付く不快感を無いとは言えなかった。
「ばっかやめろよやめろよ！俺明日書庫整理～」
「おー！なんか目撃したら報告よろしく」
「待て待て。精力を吸い取るような……」
「あーそれなら俺がお願いしたい！代わってくれ」
「そういうのは目が覚めた時、何故夢から覚めた！って自分の首を締めたくなる相手でしたってえのが定番だぞ」
「それに美女とは限らない～。山よりでかい大男の場合もだなあ」
「ぎゃーっ恐すぎる」
　闇に沈んだ森の入口が宴会場になったような大騒ぎだ。輪の中で笑っている人は、普段の「先生」の顔を放り投げどこにでもいる一人の若者の顔をしていて。
「目隠しより潰した方が手っ取り早いよね」
「見てません」
「手っ取り早いよね」
「お代わりどうぞ」
　怪談なんかより怖いものが隅っこにいるけど君達気づいてる？

　受付終了間際に滑り込んだ時、「お疲れ様です」と迎えてくれたのはイルカ先生だった。今日も暑いですね、もう上がりですかと声を掛け合いつつ目を落とした報告書におやと眉を上げる。
「逢魔ヶ淵に行ってらしたんですか」
「ええ」
「あーあれでしょ！あそこは上忍しかダメなんだよなあ」
　わらわらとカウンター内の人間が集まってくる。苦笑いをしたイルカ先生が散れ散れと手を振った。
「そういうことをここで言うのは良くないぞ」
「分かってるけどさあ。……何か見ました？」
「ご期待のモノには遭遇しなかったねえ」
「そうかあ～」
　ワクワクとした空気に混ざるほんの少しの緊張感がフツリと解けた。先輩へ向かってすいませんと頭を下げるイルカ先生にいえいえと笑いかける姿からは、うっすらと上機嫌な空気が醸し出されている。今日も疲れたしこのままとっとと退散したい。何かさっぱりとした物でも食べに行こうと思っていたのだが。
「よっしゃ検証会～」
　時計の針が定時を指した瞬間響き渡った声で、ボクの晩飯は吹っ飛んだ。



　逢魔ヶ淵は雷の国との国境にある。昔国境争いの戦場となった場所で、当時を知る人々は決して近寄らない場所だ。戦が終わった後は、また別の意味で人が寄り付かない場所となった。人が寄り付かず足場の悪い山肌に囲まれた淵は、抜け忍にとっては格好の逃げ場所となったのだ。戦時とはまた違う意味で常に血の流れる場所だった。
　人目のない場所は不穏な空気を呼びやすい。火の国からの依頼で木ノ葉は定期的に巡回を行っている。手練れの抜け忍が潜んでいる可能性があるため、任務を請け負うのは上忍が多く、今回はボクと先輩だった。
　いわくつきの場所というのはその場に相応しい噂を呼ぶ。逢魔ヶ淵にもそれなりの目撃談というやつがあるのだが、あいにくボク達は何にも遭遇していない。ハッキリと言ったはずが、なぜか噂の検証をしましょう！と盛り上がる中忍達に引っ張られ。夜の森の入口で輪になっている。
「どうぞ」
「あ、すいません」
「こちらこそ申し訳ないです。お疲れのところを付き合わせてしまって。カカシさんも」
「こういうのも楽しいですよ」
　先輩はイルカ先生に酌をしてもらって上機嫌だ。ちっとも、まったく、気にする必要なんてない。
「でもそろそろ締めましょうかね」
　イヒヒと笑うと、ううんと一つ咳ばらいをする。皆が振り返ったのを確認してするりと話し出した。息を吸うのが分からないほどの、継ぎ目ないつるつるとした語り声。普段のイルカ先生から発せられたと思えない違和感は、人声でなくただ響きつづける音を聞いているようだった。



　昔任務の途中で道に迷って気がついたら逢魔ヶ淵に立っていたことがある。確かに雷の国との境にある高山を進んでいたはずだが、なぜあの淵にたどり着いたのか分からない。俺は追っ手を撒くためにひたすら山を登っていたはずなんだ。
　まあ疲れてもいたし昼夜問わず駆けていたせいで喉も渇いていた。少し休憩しようと水を飲み、ついでに血も流そうと服を脱いで水に入った。雲が多い空には三日月が淡く浮かんでいてな、おどろおどろしい噂とは反対に綺麗なもんだと思ったよ。
　水から上がって服を着たんだけど、最後に額当てをつけようと思ったら無いんだ。夜とはいえ月も出ていてまったくの闇夜じゃない。たしかに服と一緒に置いたはずなのにどこにいったんだと辺りを見回してもてんで見つからなかった。おかしいなと思って淵に沿って歩いてみたら、ちょうど反対側の岩影に光る物を見つけてな。近寄ってみたら俺の額当てだった。なぜこんな所にと拾い上げたら掴んだ指先が滑ったんでひっくり返してみたんだ。そうしたら裏側にまだ乾ききってない血がべっとりと、ほらこんなふうに

「ぎゃーっ！」
「お前！それ、そういうのは反則だろうが！」
「ふざけんなふっざけんないつの間に仕込んだんだよ！」
「イルカ嫌い！イルカ最低！」
　ぎゃいぎゃいと騒ぐ仲間にイルカ先生は腹を抱えて大笑いだ。
「なんだよよくあるヤツだろ。こんなのに引っかかるなんて大丈夫かよお前ら」
「うるせーうるせー」
「お前がやると思わなかったんだよ！」
「ねえ、その額当てさ」
　周囲の喧騒を眺めていた先輩が突然話し始めた。皆ピタリと動きを止め先輩に視線が集中する。
「血の下に傷が付いてなかった？こう、真横にピーッと」
「え、なんでそれを」
「何だよそうなのか？そうなのかよ！」
「傷あるの？あるの？」
　ふふふと笑った先輩が酒で喉を湿らせて口を開く。
「あそこは抜け忍が他国へ渡るルートの一つ、ってのは知られてるよね。昔、雷の国へ草として入っていた忍が雲隠れのくの一と恋をして。連れ戻された後に里を抜けようとしたことがある。逢魔ヶ淵で追い詰められた男は、恋をしただけなのにって叫んだらしいよ。彼女の為なら里を捨てるって言って額当てに傷を入れようとしたけど、その前に」
「……悲恋ですね。でも」
「しゃあねえよな」
　しんみりとした空気が漂う。忍は里と共に生きる。まして昔は他里との関係は今とは比べものにならないほど悪かった。
「傷はね、彼女への誓いでもあった。里でなくあなたを選ぶっていうね。でもそれを入れる前に事切れてしまった男は、諦めきれない思いを逢魔ヶ淵へたどり着いた忍の額当てに刻むんだって」
「え」
「それじゃイルカの額当ては……」
「うわーーーっ！」
　一転、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。額当てを見せろという者と怖いから絶対外すなという者ですったもんだしている。騒ぎを起こした本人は口元に笑みを浮かべて酒を飲んでいるが。
「本当、逢魔ヶ淵って怖いですね」
「そうね」
「とんでもない人に見初められてイルカ先生も大変だ」
「……大変なのは、絶対に叶わないと分かっている思いを刻み込まれた方かもよ」
　俯いて酒を注ぐ顔が闇に隠れている。男の思いになぞらえてイルカ先生の額当てに傷を付けたのは誰なのか。一体いつからこの人を、と疑問が浮かんだが、知ったら引き戻せなくなりそうで酒で飲み込んだ。鉤爪を外した指先が彼の額当てをなぞる日は来るんだろうか。イルカ先生を見つめる横顔に、来たらいいのにと思った。



2021/08/29