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 目と目は合った。しっかり。でも一瞬後には受付スマイルを張りつけた顔を向けられて、ぴしゃりと何かが閉められた。とぼとぼと受付を出れば空はまだ明るく、全身の力が抜けていくのを感じる。疲れていたけれど、会いたかったから必死で駆けてきた。せめて今日はと思ったのに、よりによって夜勤だとは。約束を破ったのはこれで何回目だろう。積み重なる謝罪が意味を無くしてゆくのが怖くて、最初の三回で数えるのをやめてしまった。あの人はしっかり数えているんだろうか。俺達が過ごすはずだった時間を数えて、どう思っている?
 ぼんやり空を眺めていると押し流したはずの記憶が甦りそうで、足に力を込めた。まだ歩く人の多い里の中を家まで駆ける。すれ違いざまに振り向く人がいても気になどならなかった。

 玄関のドアを開けた途端に感じる篭った空気にうんざりした。空気の入れ換えをしながらベストと額当てを放り投げる。手甲を外して蛇口を捻った。流れる水を受け止めて顔を洗う。水で冷やした所で頭に浮かぶ人は変わらない。イルカ先生が顔を洗うと、頭の上で括った髪の毛が揺れて犬の尻尾みたいだった。あの時は酔っていたからかなり気が緩んでいて、目の前で揺れる尻尾に思わず手が伸びて。ビックリして跳ね起きた先生は、笑いながら「わん!」と吠えてお手をしてくれたんだ。
 別にそれだけが理由じゃないけど。でもあの時何かが動き始めて、俺は彼と恋人になった。迷いつつも頷いた彼の手を取った時の感触を、まだはっきりと覚えている。手と手が触れたら運命はまわり始めるんじゃなかったのか?すれ違うのが運命だなんて認めたくない。だけど、確かにあの瞬間からすれ違い始めた気はしているのだ。
 ゴシゴシ顔を拭きながらベッドへ向かえば、読みかけのイチャパラが出しっ放しになっていた。
「そっちはうまくいって羨ましいよ」
 本を机に置いて横になる。知り合いでいる内はすれ違いなど気づかなかった。約束すら稀だったから当然なのだろう。むしろ、いま空いているからどうかという誘いばかりだった気がする。おそらく先生は、たまに声をかけてくる相手に合わせてくれていたのだ。そんな簡単なことすら気づかぬほど、俺は彼が欲しかった。膨らんだ思いはとんでもなく不格好な言葉となったのに、それでも先生は、受け止めてくれたというのに。
 成就の喜びも束の間、約束を破る度にチリチリと胸の奥が焦げる。果たせぬ約束を繰り返し、焦る気持ちが疑問を抱く。先生は俺に合わせたことを後悔しているかもしれない。犬の真似をしたように、友達からでいいからとしつこい俺に合わせただけ。あの時のまん丸の目を思い出せば、数回飲みに行っただけの男から告白されるなんて想像していなかったのだと分かる。
 先生は俺を恋人として好きなわけじゃない。だからこそ運良くもらえたお試し期間であの人を縛り付けてやろうと思ったのに、その不純さが何かに見透かされていたのだろうか。取り付けた約束は悉く破る羽目になり、告白する前よりも俺の株は急降下。俺が言えるのはごめんなさいの一言だけだ。思い切り抱きしめてずっと離さないと言えたら良いけれど、飲みの約束すら守れない男が吐いていい台詞じゃない。信頼なんてゼロもいいところなのに、軽薄な台詞でこれ以上軽蔑されてたまるものか。いつ来るか分からない「いつか」を待って、次の約束を繰り返すしかないのだ。どうかその前に先生が諦めませんようにと怯えながら。
 明日、夜が明けたら一番に彼の元へ行こう。もう一度手を取ることができたら、奇跡も起こるかもしれない。まだ諦めるには早すぎる。



 鈍い音が響いて意識が浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。今の音は何だろう。部屋の外からしたけれど、確かにこちらへ向かって放たれていた気がする。覚醒を待つ意識は、情報を処理しながらぼんやりと漂う靄の間に顔を出した。音の出所は玄関……、あれはきっと玄関のドアだ。
 答えを得て目覚めた頭と同時に体が動く。気配を殺して玄関へと進んだ。カーテンも引かずに寝たせいで、部屋の中は白み始めた空からの光を受けている。充分とは言えない薄暗さの残る中を息を殺して進んだ。まだ夜明けに近い時間に誰が?
ドアの向こうに感じる気配を探り、思わず声を上げそうになった。ドアの向こうに先生がいる。朝を待たずに薄闇の中を駆けてきた人が、そこに。
 走り寄ろうとして思いとどまった。ゆっくり一歩ずつ進み、そっとドアの前に座り込んで背中をつける。扉一枚隔てた向こうであなたは何を考えているのだろう。きっとそれは、夜が明けきったら分かる。それまでは、もう少しこのままで。



2021/07/04
2021/08/29(日) 02:47 ワンライ COMMENT(0)
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