カタネトコ

　ジョッキを合わせて乾杯し、乾いた喉に思い切りビールを流し込む。プハッと息を吐いて、気になっていたひと言をぶつけた。
「しっぽり？」
「場所は選ばん。意識の問題だろう？俺達が感じたらいいんだよ」
「その言い方はズルすぎだろ」
　あははと笑う声が周りの喧噪に混ざり合う。通い慣れた目新しくもない居酒屋のテーブル席。賑やかな店内には親しみすぎていて、しっぽりの入り込む余地など皆無だ。お待たせしましたの声と共に置かれるつまみも、お互いの好きなものばかりが並ぶ。ちみちみとホッケをむしっていたニシキギがメニューを引き寄せた。
「やっぱり串カツ頼もう」
「一昨日食べたって言っただろ」
「それを聞いて食べたくなったんだよ。俺が全部食うからいいの」
「じゃあ俺は～……、えーっと……白和え」
「珍しいな。がっつり専門だろ」
「しっぽり的な？」
「なるほど。そっち方面は任せよう」
　忙しなく通り過ぎる店員をすいませんと呼び止めて、串カツの盛り合わせと白和えを注文する。箸を持つ俺を制止したかと思えば有言実行とばかりに、並んだつまみの中からさっぱりとした物ばかりをこちらに寄せ始めた。漬物や炊き合わせばかり寄越すのはちょっとやり過ぎだ。俺からから揚げを取り上げるなんて許されん。皿ごと取り戻しそのまま一つ齧り付く。
「しっぽりもがっつりも関係ない。から揚げはどこにあっても正義だ」
　ニヤリと笑ってジョッキを振れば負けじと持ち上げるので、口をつける前にお代わりを頼んだ。どうせ待つ間に飲み干してしまうだろう。楽しい席の酒はどんどん進む。きっと二杯目が空になるにも時間はかからない。

　おふざけが絡むテーブルはいつもと違う顔ぶれになった。中忍の懐は美味く安く量を求めるものなのに、白和えだの酒蒸しだのあっさり小盛りな料理がちらほらと。しっぽりに引き摺られすぎだと、弾ける笑いをビールが押し流した。
　お互い好きなように飲み思うように食べ、間に上がる笑いで体が温かい。今持っているビールは何杯目だっただろう。楽しい時間は飛ぶように過ぎるものと時計を見たが、針はまだ一時間しか進んでいなかった。
「二時間って言われても驚かないわ。ちょっとペース速すぎたな。酒に変えてゆっくりいくか？」
　メニューを引き寄せて酒を選ぼうかと思ったが、無言に文字盤から顔を上げた。
「ニシキギ？」
先程までの明るさが消え去り、組んだ両手で目を覆っている。何かを堪えている様子に見えて腰を浮かせた。
「どうした？大丈夫か」
「ああ。……ちょっと酔ったかもしれん」
「じゃあ水を」
　言葉が途中で止まった。すぐ傍を店員がすり抜けていったのに声をかけられず、中途半端に立ち上がった姿勢のまま体が固まる。喉が詰まり声を出すどころか、呼吸さえ出来ているのか分からない。覚えのある不協和音が始まる予感。
「……イルカ。どうした」
　なんでもない、と言わなければならない。あの目をした人間に隙を見せてはいけない。すぐに返事をしなくては。
頭の命令を無視して動いたのは、口ではなく心臓だった。ゆっくりと、でも確実に鼓動が速くなっている。勘違いだと思いたくとも、響く鼓動やテーブルについた手のぬめりが、無視をするなと主張していた。
もう一度確かめたくて、逃げるように逸れていた視線を前へ向ける。組んだ指の隙間から刺さる眼差しに確信した。ぴたりと一致する瞳に総毛立つ。泣こうが叫ぼうが決してどかなかった、あの目と同じだ。
　体を支える手が滑り、テーブルの上をスライドしながら小鉢や皿をなぎ倒す。派手な音が鳴って、恐怖に固まっていた意識が戻った。片付けに手を動かしながら呼吸を落ち着かせることだけに集中する。
あんな目を向けるのは友人ではない。さっきまで笑っていた友人と目の前に座る男が同一人物だとは、とても思えなかった。何が起こったというのだ。
「大丈夫か？割れてはいないな」
　視界の端で持ち上がった皿に恐る恐る目を上げる。引っ繰り返して確認している姿を見て椅子の上へへたり込んだ。
「そこまで安心するか？」
　座ってろと笑い、汚れたテーブルを拭きだした。柔らかな声音だけでなく目の色も戻っている。錯覚だったのかと大きく息を吐く喉はまだ震えが残っているし、全身を鳴らす鼓動も収まったわけではない。それでも明らかに変わった空気に鼻の奥が痛み、握った拳の中で手のひらに爪を食い込ませる。
何故俺が泣かなければならないのだ。酷いことをしたのはあの人で、俺は植え付けられた恐怖から逃げようと必死なだけなのに。友人にまで重ねてしまうなんて酷すぎるだろう。
泣きたくない。あの人のせいで泣くのも怖がるのも受け入れられない。これ以上自由にされるつもりはない。
体中を覆っていた恐怖の代わりに悔しさと苛立ちが渦巻く。
「どうする？もう一杯飲むか？」
「いや、今日はもう」
「そうだな」
　泡の消えたビールを飲み干して席を立つ。いつもと何一つ変わらない、覚えていないほど共に飲み食いした友人だ。怖いと感じる必要などどこにも無い。だけど、あの日だって俺はそう思っていた。



　外へ出た途端ヒヤリとした風が吹きつけ、秋の深まりを感じる。そういえば今朝、顔を洗おうと出した水が冷たかった。地表に埋まっている水脈は季節の変化を教えてくれる。上下していた気温も落ち着いて、寒くなるのもすぐだろう。
「酔い覚ましに歩くか。イルカも手元、怪しかったし」
「手が滑っただけだ」
「分かった分かった。じゃあちょっとだけ」
　ふらりと向きを変えた背中について行く。確かにこの風を浴びていれば悪い酔いなどすぐ覚める。俺も、気持ちを落ち着かせるのに丁度いい。
　美味かった酒のこと、外れだったつまみ、夜空に光る星について。ぽつぽつと言葉を交わしながら高台への階段を昇った。里の中でも高い位置に来ていっそう星が近くに見える。
風通しが良いせいか、さっきよりも寒く感じた。人気がないのも当然だ。満天の星を楽しもうにも、吹き付ける風のせいで寒さが勝つ。隣からもぼやきが溢れた。
「ちょっと寒い」
「風強いからなあ」
「そのおかげか？雲が無いからよく見えるわ」
「降るような星空ってヤツだ」
「普通は恋人と見るもんだなあ」
「関係ねえよ」
「今だけなってやろうか」
「は？」
「恋人」
「……何を言って」
「心配するな。誰も来ない」
「やめろよ。面白くねえぞ」
　共に星を見上げていたはずだったが、頬に刺さる視線にゆっくりと横を向く。夜目に映った顔には消えたと思っていたはずの暗い欲が見えて、下腹に力を入れた。息を吐くことに集中してそっと体を引く。恐怖に飲まれて動けなくなったら相手の思うつぼだ。こんな人気のない場所じゃ、何が起きても誰も助けてはくれない。
　二人の間でぶら下がっていた手が動くのを感じ、一段下へ下りた。横へと伸ばされた手は触れる者を失い、中途半端に空を掴む。
勘違いとは言えなくなった。あの手は俺を捉えようとしていたとしか思えない。唇を噛み薄笑いを張りつけた顔を睨みつける。
「イルカ？どうした」
「ど、おしたじゃねえよ。何考えてる」
　詰まりに焦り、息が荒くなった。ほんの少しの乱れでも自分の状態を突きつけてくる。落ち着けと思う瞬間はもう遅い。すでに怯えが生まれてしまったから、落ち着こうと思うのだ。じわじわと足元から恐怖に飲み込まれそうになって、片足だけもう一段下ろした。
意識して構えていたから、急に体が固まることだけは回避できたとほっとする。俺の足はちゃんと動く。
「そんなに離れようとするなよ」
　伸びてくる手に激しく動揺し、必要以上の動作で振り払ってしまった。階段の上、不安定に高さの違う足は勢いを殺すことが出来ず、体が大きく傾ぐ。半端に浮く足がたたらを踏んだ弾みで石段からずり落ち、体が宙へ持って行かれた。普段ならチャクラを込めて一跳びの距離だが、整わない呼吸が集中の邪魔をする。やむを得ず体を固めて衝撃に備えた。

　石段に叩きつけられるはずの体は一瞬浮いただけで何かの上に落ち、覚悟したよりもずっと衝撃が少ない。肩に添えられた温もりで誰かが受け止めてくれたのだと気づく。
「駄目だよ」
　低い声に振り向けなくなった。背後から腹へ回された手を見て心臓の音が全身を叩き始める。腹に巻き付く手甲をはめた手が、誰の物かなんて考えるまでも無い。ひゅっと喉が鳴り、息の通り道が急に狭くなった。落ち着こうと思う余裕も無いほどに、一気に全身が飲み込まれる。
「帰って寝ろ」
　俺の体を通して伝えられた声が、ニシキギへ届いたかどうか。星を背負う顔はこちらから見えず、確かめる前に体が強く引っ張られた。息苦しさに呻いていた体に浮遊感が加わり、胃がひっくり返ってしまいそうだ。きつく目を閉じ吐き気を堪える。
「鍵を」
　呼びかけに目を開けたら、アパートの扉の前に立っていた。



　チカチカと瞬く電灯に呼応するように心臓が鳴る。通常よりも速い動きは、一拍ごとに冷静さを奪い取ってゆくようだ。
「先生、鍵を」
　離してくれと言いたいのに、喉がひりついて声が出ない。腹に巻き付いた腕とは反対の手が、焦れたように腰のポーチを探り始めた。尻の上をごそごそと動き回る感触に爪先が凍り付く。探る手を退けさせたくて、自分の手もポーチに突っ込んだ。狭い空間で大きな手を避けつつ小さな鍵を掴み取る。強引に引っ張り出したせいでポーチのボタンが弾け飛んだが、気になどならなかった。鍵を持つ手が震えているのが分かる。鍵穴へ差そうとしたが定まらず、カチカチと金属音を鳴らすばかりだ。
　深呼吸をして落ち着きたい所だが、背後にピッタリと張り付かれては出来るワケがない。さっさと入れとやたらと鍵を突きだした。数回の空振りの後、カカシさんは俺の手ごと鍵を掴むと鍵穴に入れて回した。ドアを開け、俺を玄関へ押し込みサンダルを脱ぎ捨てる。腹に回した腕で引き摺るようにして居間へと連れ込まれた。畳の上へ転がされ見上げた視界は、記憶の底に封じた物とよく似ている。
　認識したらもうダメだった。悲鳴のような音を立てた喉が使い物にならなくなり、細かい息を吐きながら胸を押さえた。苦しげな喘ぎに呼応してこめかみの拍動が強くなる。
もう一度襲われるのか。ここで、またあの夜のように。
　部屋中に響き渡る喘鳴が自らを追い詰める。逃げなければと思う体は息を吸うのに精一杯だ。立ち上がるなど到底出来ない。

　黙って見下ろしていたカカシさんが辺りを見回した。視線が外れた隙に何とか遠ざかろうと力を入れてみたが、飛び出すには心許ない。覚悟を決めるつもりは無いが、体が言うことを聞かないのでは逃げ出すのも難しいだろう。それでも、と腕に力を入れる。少しでも時間を稼ぐ、というよりは嫌悪感からカカシさんから離れたかった。この瞬間だって胃の中を全て吐き出してしまいそうなのを必死でこらえている。
　ずりずりと尻を引き摺りながら壁際まで移動して体を縮めた。部屋のあちこちを眺める男が何を考えているのかは分からないが、こちらに興味を持たないのなら好きにしてくれ。
　胸の内が聞こえたようにカカシさんが動き出す。壁際に張り付いて丸まる俺をちらりと見て居間を出て行った。隣の寝室のドアが開く音が聞こえる。また浅くなりそうな呼吸を宥めながら、自分へ言い聞かせた。
　すぐには動けないのならば、動けるだけの時間を作れ。相手をよく見ながら落ち着いて機を待つのだ。許容できるかは別として初めてではない。前回の経験が、逃げ出す為の助けになるだろう。
　ポーチへ突っ込んだ手が金属の感触を握りこむ。冷たさが動揺を吸い取って手裏剣へと染み込ませてゆくようだ。少しずつ回り始めた頭がパタパタと思考の扉を開き始めた。知っているからこそ恐怖で動けなくなるのだと泣き喚く自分を抑え込み、足の力を確認する。踏み込めるようになったら壁を壊してでも部屋から脱出。すぐに捕まったら意味が無い。まずは走り出せるようになること。それが第一だ。
　寝室を出る音が聞こえて入り口を睨み付けたが足音は遠ざかる。微かな水音に眉を顰めた。一体何をしているのだ。
居間の入り口に現れたカカシさんは水の入ったコップを持っていた。卓袱台の上に置き、俺とは反対側の壁側に座り膝を立てる。
「飲んで。出来たらでいい」
「……そんなもん、飲めるか」
「ただの水だよ」
「信用できない」
「そうだね」
　俺の噛みつくような言い様にも、眉一つ動かない。潰されそうな圧も息が止まりそうな冷たさも感じなかった。部屋の反対側、壁に凭れてこちらを見ているだけだ。
　ただ座っている彼は俺の中の楽しい記憶と重なって、手裏剣を握る手に力が入る。油断するなと思っても、居酒屋の壁に凭れて飲み過ぎたと笑う姿が目に浮かんだ。酒の緩んだ空気と溶け合うように笑うカカシさんがいて、俺も自然に笑顔になった。
「……カカシさん」
「はい」
　激しい心臓の音も不快な呼吸音も全てが止まった。柔らかく響く低い声は、俺の友人の声だ。
「カカシさん」
「はい」
「カカシさん！」
「はい」
　自分を追い詰めていた相手だということも忘れ、何度も呼びかけた。返ってくる声は穏やかで、いつも俺が隣で聞いていたものと同じ。信頼して心を預けきっていた声だ。
「カカッ、さ……」
　堰を切ったように涙が溢れる。信じていたのに裏切られたと思った。俺は彼にとって気が変われば何もかも踏み潰してしまえる存在なのかと失望した。カカシさんに蹂躙されたのは体だけでなく、彼への信頼や二人で過ごした時間、俺自身のプライドも含めた何もかもだ。懇願する俺を下に敷き好き放題する男は、知らない顔をしていた。
　醜悪な欲を灯し爛々と光る目に見据えられ、混乱の中へ放り出されたまま抜け出せずにいる。沸き起こる疑問に答えは無く、もう知らぬ顔をして前に進むしかないのかと歩き始めようとしたのに。
「な……、で。なん、でっ！」
　涙で歪む視界は役に立たない。どれだけ目を凝らしても、カカシさんがどんな表情をしているのか知ることは出来なかった。明かりのない部屋で、決して交わらない壁に凭れてどう思っているのか。振り絞った疑問は宙に浮いたまま、視線だけは注がれていることに耐えきれず突っ伏した。止まらない涙は畳へと吸い込まれてゆく。
　受け止める者もいないのに、意味もなく流れ続ける涙は何なのか。その意味すら分からなかった。答えはもらえなくても、泣きながら名を呼べば遠くから小さく返事がかえってくる。せめてあなたがここに留まる理由を教えてもらえないだろうか。
　新たな疑問が浮かんだが、それも涙の中に消えていった。