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 五感に刻まれた恐怖というのは質が悪い。どれかを防いだとしても別のどこかが反応してしまったら意味が無く、あっという間に追い詰められる。あの夜に感じた恐怖は日々のそこかしこに姿を変えて潜み、常に俺を狙っていた。時間場所の関係なく、不意に耐えがたい感覚の中に放り出される。
 視線を向けられれば彼と同じ邪心が潜んでいるのではないかと怯え、無音の中に突如響くありもしない息遣いを聞いたりした。鼻をつく、こぼれたビールと血の臭いに辺りを見回しては安堵の息を吐くことも。頭では理解していても、本能が騒いで体がつられてしまう。
 これらを呼び水として浮かび上がるのは、あの夜の消してしまいたい記憶だ。どれだけ振り払おうとキリが無い。藻掻けば藻掻くほど引き摺られ、身動きが出来ないほどきつく絡め取られている。まるで強くあろうとする俺を嘲笑うかのように。

 それでもベッドの上で丸まっているわけにはいかなかった。仕事を放り出すことも、休むための理由を打ち明けることも、どちらも選べない。彼を罰してもらえれば楽になるのかと考えたこともある。すぐに無駄な行為だと悟ったが。あの人のことや自分が受けた仕打ちは、たとえ誰が相手であろうと絶対に口外しない。単純に自分を守る為だ。
 仮に俺が告白したとして、友人付き合いを見てきた者からすれば、何の芝居を始めたのかと笑い飛ばして終わりだろう。ましてや、俺達について何も知らない者であれば悪い冗談としか思えない。カカシさんは里の誉とまで呼ばれる一流の忍で、訴えているのが何の取り柄もないような平凡な中忍なのだから、どう捉えられるかなど分かりすぎている。俺とカカシさんの間に起きたことを知る者はいないだろう。良かったと感じていたはずなのに、だからこそ一人きりで耐える苦しみが続くのだと恨みが募る。
 昨日は自分にとってプラスだったことが今日はマイナスとなり、明日はまたどう変わるのか分からない。不安定にひっくり返る気持ちを宥めながら、それまで通りに過ごす。誰かに吐き出したいと請う心を押し潰し、ただ時が過ぎるのを待った。何も考えずに済むようひたすら仕事をして、倒れるように眠り朝を迎える。これの繰り返しだ。

 俺は現実に、彼に何かを壊された。肉体だけでは無い何かを。

 突如襲ってくる恐怖から逃れる為には、常に自分を追い込んでいなければならなかった。今の状態を長く続けられないのは分かっている。だが、剥き出しの傷が癒えるには長い時間がかかるとしても、薄皮一枚張るまでは走り続けねばならない。ありもしない音を聞き、見えもしない物を探る状態から早く抜けださないと、俺自身が壊れてしまう。過去は変えられないが、現在の自分に正常な感覚を取り戻すことは可能だ。血が止まったのならば傷は覆い隠す。

 回復を助けたのは忍としての自分だった。里の日常の中で振るわれた暴力は、任務で受けるそれとは異なる。切り替えがあるからこそ成立していた感覚を、自ら断った。任務で受けた痛みや忘れられず沈めていた苦しみを全て掘り起こし、甦っては苛む記憶の中にあの夜を挟み込む。内と外。個と忍。今まではハッキリと意識していた部分をあえて曖昧にして、一緒くたに混ぜ込む。
 これは作業だ。突然浮かび上がる光景に怯えるのではなく、自分でコントロールすることで、大した事では無いと意識を塗り替えてゆく作業。
 与えられてきた痛みの中で、あれだけが異質で酷く苦しめる。その理由が「自分」であるのならば、忍の枠へ放り込めば良いのだ。何故、どうしてと苦しむ記憶は、忍として埋もれさせた記憶の中で徐々に輪郭をぼやけさせてゆく。特別じゃない痛みは等しく体に溶け込んで、ようやく目を開くことが出来た。あとは、隠した傷が塞がるのを待てばいい。
 自ら苦痛を思い出す行為を繰り返すのは自傷にも見えるが、一人で出来る一番手っ取り早い方法だった。出血を塞ぐ為に傷口を焼くのと同じこと。それこそ俺達にとってはよくあることだ。



 トントンと揃えた束を置いて隣の山を掴み取る。
……15,18,21,……。
「おっしピッタリ!そっちは?」
……42,45,48,50!
「あった!終わりだ」
 やー終わった終わったと笑い合い、束ねたプリントを棚に収めて終了。
 忍になるまでは想像もしなかったが、意外にも書類仕事はたくさんある。アカデミー教師になってからは、特にプリントの枚数を数えるのが早くなった。世の中、理想とは違うことばかりだし、考えもしなかったことが突然訪れる。それでも歩き続けねばならないと、この里で生きていると強く思う。理想の上にあっても道を断たれた人々を、嫌と言うほど見ているから。
「今日どうだ?これから」
 俺はいい、と答えようとして開いた口を閉じる。笑顔といつも通りの誘い文句。普段と変わらぬ素振りの中、隠されているものに気づいてしまった。まったく、偽れないなんて忍失格だろうに。
 指摘して逃げても良かったが、その気遣いは有り難いものだと分かっている。あの夜以来、ただがむしゃらに働くばかりで一切の付き合いを止めていた。誰に声をかけられても仕事のひと言で断り、大好きな一楽へだって行ってない。
 俺はまだ怯えていたのだ。仕事以外の時間を過ごし、覚えておきたい「何か」が起こったら、カカシさんにされたことを忘れられなくなるのではないかと。
 
 自分の中の痛みを掻き集め、必死であの夜を埋め込んだ。辛い夜だけを空白に出来たら良かったけれど、あまりにも痛すぎて自分一人では切り離せなかった。無かったことにしてやり直したかったのに、それさえもまだ選べない。復帰を第一としてやむを得ず押し込めたが、いずれ塞がった傷ごと記憶から消してしまいたいと思っていた。
 自分自身から背けた目は外へ向かい、流れてゆく日常を眺める。その時間が個々の区別をつけるまでもないほど平凡であることがよく分かっていた。だから思った。これならば何とかなるのではないかと。
 後に続くものが無ければ、途切れたままでも問題ない。逆戻りをして好きな部分からスタートさせても構わないだろう。千切れた糸の端を切って、綺麗な部分だけを結び合わせるようなものだ。それくらいの記憶操作は自分にも出来る。むしろ今はその為の気力を養っている状態とも言える。
 俺の人生の中に、彼の暴挙を大事として刻みたくない。その為に可能なかぎり心を揺らさず、仕事以外何も無い時間を送ろうと思っていた。仕事であれば、忍の枠に留めておくことが出来るだろう。個である自分を守れれば良い。対処するのは傷が塞がってからだ。
 でも本当は分かっている。里の中で生きているのならば、どうしたって何かに干渉されるのだ。ずっと避けてはいられない。自分の人生の、里での日常の一部として、続きを始める日は必ず来る。

 せめて、と願っていた薄皮は張れたようだ。誘いをかける友人の瞳に怯えず、隠している俺への憂いに気づけたのが証明している。踏み出すのは今かもしれない。
「分かった」
「いいのか?」
「ああ」
「俺、高台の方に新しい店みつけたんだけど。あ、お前はどこがいい?」
「そこにしよう。行きたいんだろ?」
「ばれたか」
 はははと上がる声にこちらもつられた。笑い合えるのが嬉しかった。





 あんなに頑なだったのが嘘のように、当たり前の顔をして日常が戻って来た。俺の方が悪いのだと言わんばかりだ。怖々と踏み出した先はよく馴染んだ空気のままで、何も変わらない。久しぶりに飲んだアルコールは気味が悪いくらいに酔わせてくれ、二人で何度も笑い転げた。
 切っ掛けを思い出せば、何よりも避けるべき場だったと思う。それを楽しく過ごせた。たった一回といえど、人と飲みに行けたという事実が一気に心を軽くする。もう自分は大丈夫だと思えるほどに。
 必死に言い訳をし、自分の中を混ぜ合わせたり切り離したりと足掻いているつもりだった。それだけが救いだ、唯一の方法だと言い聞かせながら。
 実際は、ぐずぐずと丸まって痛みを捏ねくり回していただけなのかもしれない。過去の苦しみまで引っ張り出して自分を慰めつつ、大仰な言い訳までしていたが、本当はただ時が癒やしてくれただけなのかもしれないと思う。時を待つ為の言い訳をしていただけ。
 カカシさんとはずっと顔を合わせていない。それが心を穏やかにした大きな理由だと感じている。こうまで会わないのを不思議に思うが、実際はどうなのだろうか。元が忙しい人だからと思うけれど、それだけではないと心が否定する。あんな目にあったくせに、昔を覚えているせいか、どうしたって疑問を捨てきれないのだ。

 彼は何故俺を襲ったのか。わざわざ夕方の校舎に現れて、何をしたかったのか。謝罪も弁解もなくこのまま無かったことにするつもりなのか。その為に一生顔を合わせないつもりなのか。

 湧き上がる疑問は後を絶たない。恐怖を振り切った頭には、彼への疑問がゆらゆら揺れる。突きつけることの出来ない俺を映し出しながら。



「八重が一重になっちまったな」
 後ろからかけられた声に振り向くと、ニシキギが机の隅の飴細工を見つめていた。瓶の中で咲き誇っていた橙色の花は、いくつもの花びらを失って少し淋しく見える。
 鮮やかな花は送り主の想像以上に俺を慰めてくれた。時折訪れるどうしようもなく苦い味が広がる瞬間は、橙色の花びらを摘まむ。そうすれば心まで穏やかになれたのだ。
「そろそろ散り時か?」
「残念だけどな」
「カズラの土産だったな。繊細な飴細工とやんちゃ坊主は、どうもうまく結びつかん」
「美味いぞ。食べてみるか」
 蓋を外した瓶の中に指を入れ、カキンと花びらを折り取る。差し出された飴を見て薄く唇を開いたが、思い直したように首を振った。
「それはお前のだろう。俺はいいよ」
「そうか?」
「それより今日飲みに行かないか。一昨日マサキと行ったって聞いた」
「ああ。じゃ片付けるわ」
 摘まんでいた飴を口に入れ、机の上を片付けた。並んで職員室を出る。
「何が食べたい?」
「えーっと、マサキとは串カツだった」
「ああ、新しく出来たとこ」
「あいつ調子に乗って食い過ぎ。串立てパンパンにしたんだぞ」
「で、笑いが止まらなくなった?」
「よく分かるなあ」
「マサキとイルカが揃えば大体そんな感じだろ。じゃあ今日はしっぽりいくか」
「ははは。しっぽり。ニシキギと」
「そ。俺としっぽり。誰かさんいい匂いさせてるしなあ」
「やっぱ食べる?」
「やめとく」
「残念。すぐビールの匂いに変わっちまうぞ」
「俺もそうなるから変わんねえわ」
 軽口を叩きながら見上げる空は、茜色を通り越して紫がかっている。一日働いて、アルコールで流したい疲れは充分溜まっていた。早く飲みたいと進む足が速くなった。
2021/10/29(金) 14:01 ゆらゆら COMMENT(0)
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