◆各種設定ごった煮注意
解説があるものは先にご確認ください
奇跡は一瞬で稀にしか遭遇しないからこそ奇跡なのだ。あれは一楽のラーメンが起こした奇跡だったのだろうなと思っている。空になった丼を持ってきたカカシ様はニコニコとしていて、シラギク様も喜んでくださったのだと良く分かった。これを機に何とか以前の状態までお戻ししたいと思ったのだが、俺達の気合いは空回り。すっかり良くなったと思えた食欲は、すぐに重い盆を下げる日々へ戻った。
一瞬だったとしても、普段の食事に比べたら効果はあったはずだ。もう一度お出ししましょうと掛け合ってみたが、カカシ様は首を横に振り続けている。煮麺だってそうだったのだから二度目は無いだろうと言われ、目新しいものだから口にしてくださったと思っているのではないかと反発が生まれた。
「あれほど喜んでくださったのは、ラーメンだけが理由だと言えないと思います。あなたが駆けつけてくれたからではないのですか」
焦りが口を滑らせて、昔のような不遜な態度を取ってしまった。勢いのまま、まるで自分がシラギク様になったように滔々と並べ立てる。今までそばにいてもらえなかった夫に来てもらえたのが嬉しいのではないか。好物だけであんなに回復するわけがない。里長の元へ嫁ぎ己の境遇を理解していたとしても、やはり淋しいという気持ちが募っていたのだと思うと、何度も訴えた。俺達がどれだけ声をかけてもどんなに美味しい料理をお出ししても、夫であるカカシ様に敵うことなどないだろう。ほんの少しの間でも、毎日そばにいて差し上げたらシラギク様のご気分も変わられるはずだ。心が安まれば、いずれはお体も良くなるかもしれない。だから、どうか少しでもシラギク様と一緒の時間を作って欲しい。
そんなことは言われなくても、誰よりもカカシ様自身が分かっているのだ。理解しても行動できない身分だと知っていたのに、詰るような真似をして傷つけてしまった。自分の不甲斐なさと目に見えて弱ってゆくシラギク様への焦燥を、ただ黙って耐えている人へとぶつける愚行。俺が強い言葉を投げつけても、カカシ様は雁字搦めの身を憂いながらただ黙って聞くことしかできない。カカシ様へと投げつける言葉は綺麗に自分へ跳ね返り、後悔と共に幾つもの傷を刻んだ。痛みを免罪符にして今日も夜の時間を二人で過ごす。この時間の意味が以前とは違うと、とっくに気付いているけれど目を背けて。カカシ様を傷つけ、その姿を見て自分自身も痛みを浴びることで、咎められる時間ではないと言い聞かせ続けた。
日中あったことや久しぶりに見る仲間の話をしてくれていた人は、黙りこくって俺の話を聞き流している。短い時間ではあったけど、いつも色んな話をして温かい時間を過ごしていた。いつの間にか二人で交わす会話は一つの話題に固定されて、笑顔も笑い声もない。俺は毎日シラギク様のご様子やビスケの報告を伝えて、彼女のことだけを話し続ける。けっして叶わないと知りながら同じ願いを繰り返し、今日も傷つけるのだ。様々な言葉で切りつけられ酷く血を流している人は、何も言わずただじっと俺を眺めるだけ。すべて話し終えるのを待ち、最後に静かに口を開く。その為だけに座っているのではないかと思えるくらい、必ず俺にかける言葉が、何よりも痛かった。聞きたくないと耳を塞ごうとする手を堪えるために、股を強く握る。
「ごめんなさい。もっと時間を取りたいとは思ってる。先生は?先生は大丈夫ですか」
じっと見つめる瞳を睨み返す。あなたの妻の話をしていた。食事を取れず薬湯すら飲まなくなってしまった彼女を、もっと思いやってほしいと言ったのだ。それなのになぜ俺を気遣う言葉を吐くのだろう。その思いやりを受け取るのは俺でなくあの人のはずなのに。何故俺だけが毎晩この人に気遣われるんだ。ひしひしと感じる罪悪感に指先が冷たくなる。最初はぐだぐだと益体のない言葉を重ねる俺への嫌みかと思ったが、すぐに違うと気づいた。真摯な瞳の光が、心配しているのだと告げていて苦しくなる。その光を向ける相手は俺じゃない。他の誰に向けたとしても、俺にだけは向けてはいけないのだ。だって俺はあなたを好きなんだから。
言えない言葉を飲み込んで平気だと繰り返す。それ以外何も言えない。俺が彼を傷つけるように、また彼も俺を傷つける。大事だった二人の時間はお互いを痛めつける時間へと変わってしまった。もう何度嘆いただろう。大丈夫ですからと笑って、一日を閉じる。今日もそうだと思っていたのに、立ち上がりかけた俺へ座れと促した。初めての展開に不安が膨らむ。何を言おうとしているのか、嫌な予感しかしない。
「あなたがシラギクのことを気にかけてくれているのは分かります。でも俺の質問にもちゃんと答えてほしい。先生は大丈夫ですか。体におかしな所や異変はないですか。シラギクはもう」
「もう、なんですか」
「…………シラギクとの時間は長くない。最初から分かってました」
「何を言ってるんだ!」
血管が浮き出るほど強く握った拳をテーブルに叩きつける。眠る時間が長くなり食べ物を口にしなくとも、光の差し込む部屋で穏やかに笑っていると言っていた。今日だって、こっそりビスケのおやつを強請られたのだ。皿の下に挟んであったメモの小さなお願い。癖のない字で、話し相手になってくれるビスケへ美味しいものをプレゼントしたいと書いてあった。内緒でと託された願いが、あの方の気力は尽きていないと証明している。一緒に部屋で過ごす忍犬を友として、笑いながら色んな話をしていると言っていたのだ。支えるべきこの人が、一方的に手を離そうとしているなんて許されない。
悔しさに目が熱くなり、視界がぼやけた。シラギク様の気持ちも俺達の思いも、この人は何も分かっていない。寝室のベッドから動けなくても、あの分厚いカーテンで覆われた狭い世界があの方の全てでも大切にしたい。愛しているのだと思っていた。大事に慈しんで守っているのだと。それは思い違いだったのか。
「俺は大丈夫です。もっとシラギク様のことを」
「俺はあなたのことを聞いてる」
「俺のことはいい!」
「良くない。全然良くないよ。どうして何も言わないの。本当に異常はないの?俺に言うのが嫌なの?それなら今すぐにでも綱手様を呼ぶ」
「あんたは自分の大切なものの心配をしてればいいんだよ!もっとちゃんと」
「してるよ。俺は何よりも大切なものの心配をしてるの。だからちゃんと教えて」
「……大切?」
言葉に合わせてぼろりと雫が落ちた。とどまることなく湧き続ける涙がぼたぼたと落ちてゆく。好きな人の大切なものになりたいと思った。シラギク様へ向ける思いを羨ましく思ったこともある。でも、こんな形は望んでない。彼が妻へ向けるべき思いを横取りして、どうして笑うことが出来るんだ。俺には笑うことも、望んでいた言葉だと喜ぶことも出来ない。ただ、どうしてこうなったのだと疑問だけが渦を巻く。
「部下を、大事に思って頂けて感謝します。けど、俺は大丈夫ですし、心配の必要はありません」
「意地を張らないで」
「意地なんて張ってない。勝手に人の感情を決めないでください。俺の気持ちは俺のものです」
「……でも、その涙は俺のものだ」
テーブルの上で重なっていた手がゆっくりとこちらへ伸びてくる。ドクンと心臓が大きく跳ねて、椅子を蹴倒しながら立ち上がった。何も言わず必死で足を動かす。絶対に振り返っちゃいけない。あの手から少しでも遠くへ離れなくちゃいけないんだ。屋敷の門を潜り、暗い道を家へ向かって駆け続ける。商店街の入り口へ見えた所で息苦しさに足を止めた。足も体も驚くほどに重い。商店の屋根を眺めてまた涙を零した。
本気で走った。敵わないと分かっていたけれど、出来る限り遠くへ逃げるつもりで本気で走ったのだ。もうとっくに家へついていても良いはずなのに、実際はまだ家まで半分の距離だ。俺の体はどうしてしまったのだろう。きっと屋根の上へ飛び上がるのももう難しい。試そうと思う心が恐怖に負けた。もし失敗したら、俺はもう忍として生きてゆくことが出来ないだろう。こんな暗い道でひとりぼっちで、終わりを知るのか。そう思ったら足が竦んだ。歩くことは、出来る。だから進もうと家を目指した。もう何も考えたくない。
いつかの夜と同じように、うたた寝をしていたのかもしれない。あの会話は全て俺の夢だと思い込みたかったが、現実はしっかりと目の前に横たわる。話を蒸し返すことはしなかったが、お互いの目の奥を見てしまった以上、素知らぬふりをするのは難しかった。俺達は細い糸の上で綱渡りをしている。どちらかが糸を揺らせば、あっという間にプツンと切れて真っ逆さまだ。落ちた先がどうなっているのかは分からないので、ただじっと向かい合って観察している。こちらへ歩いてきてくれたらいいなという期待を込めて。或いはもう近付くなと牽制を示して、向かい合っている。
シラギク様のご様子に変化はなく、薄々カカシ様の言葉は正しいのだろうなと思っている。分かっていて連れてきたのなら、せめて最後まで大切にしてほしい。俺達も精一杯努めあげる覚悟はしている。食事の支度はもうしなくてよいと言われ、ひたすら薬湯を煎じていた。仕事の減ったオオバさんは昼過ぎに帰るようになり、一人の時間が長くなったが、明るい思考へ行きつくことなんかない。毎日どうやって頭を空っぽにしようか悩んでいる。書庫から本を引っ張り出してきても集中力が続かず、中身が入って来なかった。台所のテーブルに座り、同じページを行きつ戻りつしながら日が暮れるのを待つ。ぼんやりと窓の外を見て、茜色に染まり始めた空が綺麗だなと思っていた。カチカチと硬い音が耳に入り、振り向くとビスケが入り口に座っている。
「イルカ、来て。カカシが呼んでる」
「カカシ様が?火影室か?」
「ううん。シラギクの部屋」
まだ外は明るく、ようやく日が暮れようとする時間。いつもならいない人が、俺を呼んでいる。その意味を悟って頭が真っ白になった。カチカチと音を立ててやってきたビスケが、鼻先を足に押しつける。温かな感触で足に力が戻って来た。
「イルカ。行くだけで大丈夫だから」
「シラギク様の部屋、だな」
「うん。急いで」
「分かった」
こめかみがドクドクなるのを感じながら立ち上がった。ビスケは尻をつけたままなので、ここで待っているらしい。頭を一撫でして歩き出す。きっと、その時が来たのだ。
ノックして開けた扉の向こうは、分厚いカーテンがかかっている。部屋に差す光は温かそうに見えるが、どことなくひんやりとした空気を感じた。
「先生、こっちへ」
かけられた声に従ってカーテンの隙間を潜った。正面の大きなベッドにまで窓からの陽が降り注ぎ、部屋全体が淡い茜色に染まっている。ベッドの上に座るカカシ様へもたれ掛かるようにして、黒髪の女性が座っていた。ベストへ埋めるように伏せた顔はどこか見覚えがある。シラギク様とお会いするのはこれが初めてなのに、と考えている俺を見て微笑んだ。
「お呼び立てしてごめんなさい。一度お会いしておきたかったのです」
「うみのイルカです」
「いつもありがとうございます。ラーメンとても美味しかった。わざわざ作ってくださったんでしょう?」
「いつでも、何杯でもお作りします。一楽のラーメンは最高ですから」
「ふふふ」
顔だけではない、声も。この屋敷へきて挨拶した時にも感じていた。どことなく懐かしさを感じるのは何故だろう。実際にお会いしても何も仰らないのだから、これが初対面なのは確かだが。
「私から申し上げるのはおかしな気もしますが……。カカシ様と仲良くしてくださいね」
「シラギク様」
「カカシ様にもお願いしておきます」
「シラギク」
俺とカカシ様を交互に見て笑う。困ったように眉を下げるカカシ様が、抱き締めるように回した腕に力を込めるのが分かった。
どちらが切るのだろうと眺めていた糸。落ちることを恐れて揺らすことすら出来なかった糸を、シラギク様がプツンと切った。二人揃って真っ逆さまだ。ぐるぐる回りながら落ちていったので上下が分からなくて困った。谷底で見た景色は天か地か、どっちだったのだろう。
一瞬だったとしても、普段の食事に比べたら効果はあったはずだ。もう一度お出ししましょうと掛け合ってみたが、カカシ様は首を横に振り続けている。煮麺だってそうだったのだから二度目は無いだろうと言われ、目新しいものだから口にしてくださったと思っているのではないかと反発が生まれた。
「あれほど喜んでくださったのは、ラーメンだけが理由だと言えないと思います。あなたが駆けつけてくれたからではないのですか」
焦りが口を滑らせて、昔のような不遜な態度を取ってしまった。勢いのまま、まるで自分がシラギク様になったように滔々と並べ立てる。今までそばにいてもらえなかった夫に来てもらえたのが嬉しいのではないか。好物だけであんなに回復するわけがない。里長の元へ嫁ぎ己の境遇を理解していたとしても、やはり淋しいという気持ちが募っていたのだと思うと、何度も訴えた。俺達がどれだけ声をかけてもどんなに美味しい料理をお出ししても、夫であるカカシ様に敵うことなどないだろう。ほんの少しの間でも、毎日そばにいて差し上げたらシラギク様のご気分も変わられるはずだ。心が安まれば、いずれはお体も良くなるかもしれない。だから、どうか少しでもシラギク様と一緒の時間を作って欲しい。
そんなことは言われなくても、誰よりもカカシ様自身が分かっているのだ。理解しても行動できない身分だと知っていたのに、詰るような真似をして傷つけてしまった。自分の不甲斐なさと目に見えて弱ってゆくシラギク様への焦燥を、ただ黙って耐えている人へとぶつける愚行。俺が強い言葉を投げつけても、カカシ様は雁字搦めの身を憂いながらただ黙って聞くことしかできない。カカシ様へと投げつける言葉は綺麗に自分へ跳ね返り、後悔と共に幾つもの傷を刻んだ。痛みを免罪符にして今日も夜の時間を二人で過ごす。この時間の意味が以前とは違うと、とっくに気付いているけれど目を背けて。カカシ様を傷つけ、その姿を見て自分自身も痛みを浴びることで、咎められる時間ではないと言い聞かせ続けた。
日中あったことや久しぶりに見る仲間の話をしてくれていた人は、黙りこくって俺の話を聞き流している。短い時間ではあったけど、いつも色んな話をして温かい時間を過ごしていた。いつの間にか二人で交わす会話は一つの話題に固定されて、笑顔も笑い声もない。俺は毎日シラギク様のご様子やビスケの報告を伝えて、彼女のことだけを話し続ける。けっして叶わないと知りながら同じ願いを繰り返し、今日も傷つけるのだ。様々な言葉で切りつけられ酷く血を流している人は、何も言わずただじっと俺を眺めるだけ。すべて話し終えるのを待ち、最後に静かに口を開く。その為だけに座っているのではないかと思えるくらい、必ず俺にかける言葉が、何よりも痛かった。聞きたくないと耳を塞ごうとする手を堪えるために、股を強く握る。
「ごめんなさい。もっと時間を取りたいとは思ってる。先生は?先生は大丈夫ですか」
じっと見つめる瞳を睨み返す。あなたの妻の話をしていた。食事を取れず薬湯すら飲まなくなってしまった彼女を、もっと思いやってほしいと言ったのだ。それなのになぜ俺を気遣う言葉を吐くのだろう。その思いやりを受け取るのは俺でなくあの人のはずなのに。何故俺だけが毎晩この人に気遣われるんだ。ひしひしと感じる罪悪感に指先が冷たくなる。最初はぐだぐだと益体のない言葉を重ねる俺への嫌みかと思ったが、すぐに違うと気づいた。真摯な瞳の光が、心配しているのだと告げていて苦しくなる。その光を向ける相手は俺じゃない。他の誰に向けたとしても、俺にだけは向けてはいけないのだ。だって俺はあなたを好きなんだから。
言えない言葉を飲み込んで平気だと繰り返す。それ以外何も言えない。俺が彼を傷つけるように、また彼も俺を傷つける。大事だった二人の時間はお互いを痛めつける時間へと変わってしまった。もう何度嘆いただろう。大丈夫ですからと笑って、一日を閉じる。今日もそうだと思っていたのに、立ち上がりかけた俺へ座れと促した。初めての展開に不安が膨らむ。何を言おうとしているのか、嫌な予感しかしない。
「あなたがシラギクのことを気にかけてくれているのは分かります。でも俺の質問にもちゃんと答えてほしい。先生は大丈夫ですか。体におかしな所や異変はないですか。シラギクはもう」
「もう、なんですか」
「…………シラギクとの時間は長くない。最初から分かってました」
「何を言ってるんだ!」
血管が浮き出るほど強く握った拳をテーブルに叩きつける。眠る時間が長くなり食べ物を口にしなくとも、光の差し込む部屋で穏やかに笑っていると言っていた。今日だって、こっそりビスケのおやつを強請られたのだ。皿の下に挟んであったメモの小さなお願い。癖のない字で、話し相手になってくれるビスケへ美味しいものをプレゼントしたいと書いてあった。内緒でと託された願いが、あの方の気力は尽きていないと証明している。一緒に部屋で過ごす忍犬を友として、笑いながら色んな話をしていると言っていたのだ。支えるべきこの人が、一方的に手を離そうとしているなんて許されない。
悔しさに目が熱くなり、視界がぼやけた。シラギク様の気持ちも俺達の思いも、この人は何も分かっていない。寝室のベッドから動けなくても、あの分厚いカーテンで覆われた狭い世界があの方の全てでも大切にしたい。愛しているのだと思っていた。大事に慈しんで守っているのだと。それは思い違いだったのか。
「俺は大丈夫です。もっとシラギク様のことを」
「俺はあなたのことを聞いてる」
「俺のことはいい!」
「良くない。全然良くないよ。どうして何も言わないの。本当に異常はないの?俺に言うのが嫌なの?それなら今すぐにでも綱手様を呼ぶ」
「あんたは自分の大切なものの心配をしてればいいんだよ!もっとちゃんと」
「してるよ。俺は何よりも大切なものの心配をしてるの。だからちゃんと教えて」
「……大切?」
言葉に合わせてぼろりと雫が落ちた。とどまることなく湧き続ける涙がぼたぼたと落ちてゆく。好きな人の大切なものになりたいと思った。シラギク様へ向ける思いを羨ましく思ったこともある。でも、こんな形は望んでない。彼が妻へ向けるべき思いを横取りして、どうして笑うことが出来るんだ。俺には笑うことも、望んでいた言葉だと喜ぶことも出来ない。ただ、どうしてこうなったのだと疑問だけが渦を巻く。
「部下を、大事に思って頂けて感謝します。けど、俺は大丈夫ですし、心配の必要はありません」
「意地を張らないで」
「意地なんて張ってない。勝手に人の感情を決めないでください。俺の気持ちは俺のものです」
「……でも、その涙は俺のものだ」
テーブルの上で重なっていた手がゆっくりとこちらへ伸びてくる。ドクンと心臓が大きく跳ねて、椅子を蹴倒しながら立ち上がった。何も言わず必死で足を動かす。絶対に振り返っちゃいけない。あの手から少しでも遠くへ離れなくちゃいけないんだ。屋敷の門を潜り、暗い道を家へ向かって駆け続ける。商店街の入り口へ見えた所で息苦しさに足を止めた。足も体も驚くほどに重い。商店の屋根を眺めてまた涙を零した。
本気で走った。敵わないと分かっていたけれど、出来る限り遠くへ逃げるつもりで本気で走ったのだ。もうとっくに家へついていても良いはずなのに、実際はまだ家まで半分の距離だ。俺の体はどうしてしまったのだろう。きっと屋根の上へ飛び上がるのももう難しい。試そうと思う心が恐怖に負けた。もし失敗したら、俺はもう忍として生きてゆくことが出来ないだろう。こんな暗い道でひとりぼっちで、終わりを知るのか。そう思ったら足が竦んだ。歩くことは、出来る。だから進もうと家を目指した。もう何も考えたくない。
いつかの夜と同じように、うたた寝をしていたのかもしれない。あの会話は全て俺の夢だと思い込みたかったが、現実はしっかりと目の前に横たわる。話を蒸し返すことはしなかったが、お互いの目の奥を見てしまった以上、素知らぬふりをするのは難しかった。俺達は細い糸の上で綱渡りをしている。どちらかが糸を揺らせば、あっという間にプツンと切れて真っ逆さまだ。落ちた先がどうなっているのかは分からないので、ただじっと向かい合って観察している。こちらへ歩いてきてくれたらいいなという期待を込めて。或いはもう近付くなと牽制を示して、向かい合っている。
シラギク様のご様子に変化はなく、薄々カカシ様の言葉は正しいのだろうなと思っている。分かっていて連れてきたのなら、せめて最後まで大切にしてほしい。俺達も精一杯努めあげる覚悟はしている。食事の支度はもうしなくてよいと言われ、ひたすら薬湯を煎じていた。仕事の減ったオオバさんは昼過ぎに帰るようになり、一人の時間が長くなったが、明るい思考へ行きつくことなんかない。毎日どうやって頭を空っぽにしようか悩んでいる。書庫から本を引っ張り出してきても集中力が続かず、中身が入って来なかった。台所のテーブルに座り、同じページを行きつ戻りつしながら日が暮れるのを待つ。ぼんやりと窓の外を見て、茜色に染まり始めた空が綺麗だなと思っていた。カチカチと硬い音が耳に入り、振り向くとビスケが入り口に座っている。
「イルカ、来て。カカシが呼んでる」
「カカシ様が?火影室か?」
「ううん。シラギクの部屋」
まだ外は明るく、ようやく日が暮れようとする時間。いつもならいない人が、俺を呼んでいる。その意味を悟って頭が真っ白になった。カチカチと音を立ててやってきたビスケが、鼻先を足に押しつける。温かな感触で足に力が戻って来た。
「イルカ。行くだけで大丈夫だから」
「シラギク様の部屋、だな」
「うん。急いで」
「分かった」
こめかみがドクドクなるのを感じながら立ち上がった。ビスケは尻をつけたままなので、ここで待っているらしい。頭を一撫でして歩き出す。きっと、その時が来たのだ。
ノックして開けた扉の向こうは、分厚いカーテンがかかっている。部屋に差す光は温かそうに見えるが、どことなくひんやりとした空気を感じた。
「先生、こっちへ」
かけられた声に従ってカーテンの隙間を潜った。正面の大きなベッドにまで窓からの陽が降り注ぎ、部屋全体が淡い茜色に染まっている。ベッドの上に座るカカシ様へもたれ掛かるようにして、黒髪の女性が座っていた。ベストへ埋めるように伏せた顔はどこか見覚えがある。シラギク様とお会いするのはこれが初めてなのに、と考えている俺を見て微笑んだ。
「お呼び立てしてごめんなさい。一度お会いしておきたかったのです」
「うみのイルカです」
「いつもありがとうございます。ラーメンとても美味しかった。わざわざ作ってくださったんでしょう?」
「いつでも、何杯でもお作りします。一楽のラーメンは最高ですから」
「ふふふ」
顔だけではない、声も。この屋敷へきて挨拶した時にも感じていた。どことなく懐かしさを感じるのは何故だろう。実際にお会いしても何も仰らないのだから、これが初対面なのは確かだが。
「私から申し上げるのはおかしな気もしますが……。カカシ様と仲良くしてくださいね」
「シラギク様」
「カカシ様にもお願いしておきます」
「シラギク」
俺とカカシ様を交互に見て笑う。困ったように眉を下げるカカシ様が、抱き締めるように回した腕に力を込めるのが分かった。
どちらが切るのだろうと眺めていた糸。落ちることを恐れて揺らすことすら出来なかった糸を、シラギク様がプツンと切った。二人揃って真っ逆さまだ。ぐるぐる回りながら落ちていったので上下が分からなくて困った。谷底で見た景色は天か地か、どっちだったのだろう。
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