◆各種設定ごった煮注意

解説があるものは先にご確認ください
闇に沈んだ森の中、星の光を頼りに枝を蹴る。
「先輩急いでるんですか」
「いや」
「じゃあもう少しスピードを落としてやって下さい。遅れてる」
 振り返って目を凝らしても、動く影が見当たらない。枝の上で足を止めて耳を澄ませた。まだ遠い場所で微かに枝の揺れる声が聞こえる。いくら新人とはいえ、暗部に属する者が立てて良い音ではない。
「緊張して飛ばしすぎたみたいで。チャクラが少し」
「分かった」
 幸い任務は完了している。ここで休憩して、朝を待って発てば良いだろう。帰路について気が緩んでいたのか、背後の乱れを見逃してしまった。立て続けの任務で知らぬ内に疲れが溜まっていたのかもしれない。まだ里までは距離があり、立て直すにもちょうど良い。周囲の気配を探っても怪しいものは感じられなかった。枝の揺れる大きな音へ顔を向けると、はあはあと荒い息をして大柄な暗部が降り立つ。
「もっ、申し訳ありませっ」
 言い終える前にゲホゲホと咳込んだ。身長は俺よりも頭半分大きいが体格に中身が追いついていない。今回は慣らしだから良いものの、現場に出るにはもう少し体を作らないと共倒れになりそうだ。落ち着けと言いながらテンゾウが背中を摩っている。あえて言わなくても、二人とも頭の中は帰還後の訓練でいっぱいだろう。
「里まではまだかかる。ここで一旦休息、夜明けと共に出立」
「はい」
「すみません」
「部下を把握しきれてなかった俺にも責任がある。しっかり休んで体を戻して」
「はいっ!」
 頭を下げる猿面に手を振って枝を蹴る。確かもう少し行った先に小川があったはずだ。水場を確認しておこう。

 木の間を抜け、ゴツゴツとした岩の転がる川辺へ出る。水面が星空を映し出してキラキラ光っていた。指先を水に浸して目を閉じる。水の流れる音以外何も聞こえない。これならば眠れるだろうか。
「先輩」
「何」
「結界は張りますか」
「多分大丈夫。そのまま休んで」
「はい」
 立ち去らない気配に指先を引いて立ち上がる。面を着けているから表情は分からないが、何か言いたいことはありそうだ。黙ってポケットに手を突っ込む。濡れた指先を見られるのは、何となく嫌だった。
「……眠れますか」
「誰かは見張りでしょ。俺が起きてる」
「先輩」
「早く戻れ」
「はい」
 消えた気配を確かめてゆっくりと森の中へ戻る。星の光が届かない暗闇の中で深呼吸をした。胸の中まで闇を吸い込んだら、同化して眠れるのではないか。そんな馬鹿げたことを考えて。



 先生の家を出たあの日。真っ直ぐ自宅へ戻りそのままベッドへ突っ伏した。夕方から朝まで泥のように眠り込んで、ようやく起きたのはとうに日が昇った後。久々に感じるクリアな思考に、これで戻れると安堵した。夢のような生活は終わったが、その変わりに本来の自分へ戻るのだ。睡眠を得て丸くなった思考は、これで良かったのだと痛む心を撫でる。幼い頃から忍として生きてきた。忍であることは自分そのものなのに、この年になってそれを侵食するようなことがあってはならない。心の乱れや不調は自分と仲間の命に直結して、簡単に失ってしまう危険を孕んでいる。どうあがいても過去と現在を切り離すなど不可能なのだから、この選択は正しかった。己のせいで失われるかもしれない仲間の命と恋人。双方を天秤にかければ、選ぶべきはどちらかなど決まっているのだ。意識を切り替えることで、ままならない現実に苛々していたのが嘘のように穏やかさを取り戻した。任務への集中も高まり、里の忍として駆ける日々を繰り返す。
 心が乱れてしまうのは分かり切っていたので、徹底的に彼を避けて絶対に会わないようにした。家を出る前に決めたことを忠実に守り、受付だけでなく里内のあらゆる場所でも彼と会わないように腐心する。待機所では奥のソファに座り、窓辺には近づかない。報告書の提出は彼の当番ではない時間で。一日中今頃先生は何をしているのだろう、どこにいるのだろうと考えるのは、まるで恋人同士に戻ったようでやめられない。悪い遊びだなと思いつつも、記憶の中の先生が次々に甦るので無碍にできなかった。もう側にいられないけれど、頭の中の先生は俺だけのものだ。愛してるよと囁けば嬉しそうに笑ってくれるので、そっと抱きしめてみる。腕の中の感触は、いつまで覚えていられるのだろう。

 ぐっすり眠って体調を取り戻し、彼以外は何もかも元通り。すっかり気を抜いていたのだが、異変が現れるのに十日もかからなかった。夜、明かりを消してベッドへ入る。闇の中で目を閉じて眠りが訪れるのを待つが、いつまでたっても眠れない。気がつくと朝という日々が続き、取り戻したはずの平穏が乱れ始めた。眠ってしまえば朝まで眠れるのに、寝付くまで異常に時間がかかる。暗い部屋の中、じっと目を閉じていると脳裏に浮かぶのは闇に相応しい記憶ばかり。苦しさに体を起こし、立てた膝の上に額を押し付け生臭い記憶を押しやれば、開いた隙間に浮かんで来る顔など一つしかなかった。
 安眠できるのは、闇の中で一人きりの夜。誰かの気配を感じれば、敵ではないかと本能が騒ぎクナイを手に目を開ける。共に動く仲間たちも同様で、これが当然と認識していた。そうではないのだと知ったのは、初めて愛する人を手に入れた時だ。俺にとって眠りに落ちる前の時間は、繰り返し過去が浮かび上がる苦い反復の時間でしかない。眠らなければ生きてゆけない。そうと分かっていても意識を失うまでの時間は苦痛でしかなく、記憶が忍び込む隙間を埋めるようにいつも何かを考えていた。
 その時間に違う意味を与えてくれたのは先生だ。目を閉じて隣の温もりを抱きしめれば、愛する人の呼吸や匂いに全身が包まれる。幸せに満ちた時間はそのまま穏やかな眠りへと繋がり、クナイを潜ませる必要も真横の気配を感じて飛び起きる必要もない。何かで頭をいっぱいにしなくとも、恋人の存在だけで自然と眠りにおちる。あれは人生で一番恵まれた夜だったと思う。
 取り戻せるとは思わない。ただ、苦痛を伴うとしても睡眠で休息を取れる日々に戻るのだと思っていた。実際は、眠れないと呻きながら気を失い、はっと気づけば朝になるという毎日。眠るという状態には程遠く、何故こんなにもうまくいかないのだと頭を抱えた。おちる形でも何とか休息にはなっているらしく、精神がピリピリするほどではないが体は重い。じんわりと少しずつ抉られてゆくような日々に苦さを覚える。離れたのは彼のためだ。彼を傷つけないために離れたのだから、無駄ではない。自分に言い聞かせなければ夜を迎えることが出来なくなっていた。



 あれほど張り詰めていたというのに、やはり油断してしまう時はある。火影室から受付へ向かう途中で先生とかち合いそうになり、咄嗟に柱の影に隠れた。同僚と笑い合う楽しげな声は、柱を隔てたこちらにも飛び込んで来る。少し高くて柔らかい響きはいつも隣で聞いていたそのまま。流れて来る彼の気配に、いつの間にか体中を覆っていた倦怠感が消えている。彼の声だけで、こんなにも。置いてきたはずの感情が揺れ動く。抗うべきなのは分かっていたが、もう誤魔化すのには疲れていた。目を背けても赦されたい。
 アカデミーの教室はイルカ先生と子供達の声でいっぱいだ。窓の横の木に登り、幹に体を預ける。温かな日差しと明るい声に体の力が抜けてゆき、すぐに眠りは訪れた。安眠のためと言い訳をして、彼の声の側で眠る。目が覚める時には授業が終わっていて、しんとした教室には誰もいなかったが、多分それが良かった。程よい距離は十分な眠りと休息をもたらし、彼へと残る未練も満たす。目にするだけで苛ついていた笑顔を見つめられるようになったのだ、もう十分だろう。振り返ると、先生の家を出てからひと月経っていた。

 物事は最初が肝心だ。植付けられた感情を塗り変えるには手間がかかる。一度でうまくいくように、タイミングを見計らった。先生が明るく楽しく酒を飲み、ほどよく酔っ払ってかつ判断力がまだある程度。出て行った男が前後不覚の間に勝手なことをしたと思われたら、次へ繋がらない。うっかり相手に従ってしまうけれど、意思決定は自分で行ったと思える時が最良だ。ふわふわと浮くような足取りの先生を確認して先回り。こちらから声をかけると警戒させる。彼から見つけてもらわなければ。

「じゃ、約束ね」
「はい」

 ほんのりピンク色に染まった頬を見ながら背を向ける。ゆっくりと歩き去りながらも、力が抜けてへたり込みそうだった。告白した時よりも緊張した。失敗していたら、二度と声をかけることは出来なかっただろう。深く息を吐いて、彼の顔を思い出す。今夜は良く眠れる気がする。

 うまくいったと思ったのは勘違いではなく、空白のひと月が嘘のように、また距離が縮まった。受付で報告書を出し、たまに飲みに行き土産を渡す。恋人になる前へ時間を巻き戻したように、懐かしい毎日が戻ってきた。眠ろうと目を瞑る時、先生と話した日はその時間を、会えなかった日は記憶の先生を引っ張り出す。そうすれば驚くほどに穏やかに眠りにつくことが出来た。彼のせいで眠れないのだと離れたくせに、彼がいなければ眠りにつけないと距離を縮める。自分でも何をやっているんだと呆れるが、もう自分の中からあの人を排除することなど出来ないのだとよく分かった。近づきすぎれば過去の自分が牙を剥く。完全に失うことは今の自分が許さない。きっとこの距離より動くことは出来ないのだろう。家を出る前や出た後の時間に比べたら、何倍もマシだと恋しがる心を納得させる。体調が落ち着いてさえいれば、抑え込むのは難しくなかった。いつもそうしてきたのだから。



 友達に戻ったかのような、元恋人との食事。お互い何となく線を引き、酒量はそこそこで収めるようになっていた。アルコールで口が滑らないようにと思うのは、この関係を続けようという意思があるからに違いない。一人で出した結論に胡座をかき、深く考えるのはやめた。苦しむのも悩むのも疲れていたのだ。
「たまには送ってください。酔い覚ましにも良いでしょ」
 頬をかきながらお願いされたので、笑って頷いた。手を振る代わりに隣へ並び、一緒に歩き出す。酔いを覚ます必要などなかったが、たまの我が儘を聞いてあげたくなった。辿るのは先生の家への道。何度も一緒に歩いた道をゆっくりと進む。送れと言ったくせに何も話さないので、こちらも黙ったままだ。あっという間にアパートへ着き、自然と足が止まる。部屋まで送るかと考えていると、夜空を見上げていた先生がぽつりと呟いた。
「カカシさん。俺のこと好きですか」
 小さな声は隣に立ってようやく聞こえるほどでしかなく、聞き間違いかと疑いそうになった。短くて単純な質問は「はい」か「いいえ」で答えられてしまうものだけど、その言葉には抱えきれないほどの重さがこもっている。二人の時間と、離れていた時間と、今。ずっと変わらない思いを確かめるように答える。
「愛してる」
 振り向く気配を感じて俯いた。彼と向かい合って言える立場ではないと分かっている。この距離を保つなら誤魔化すべきだった。分かっていても出来なかった。
「あなたのことを愛してるよ」
 もう終わりかな、と目を瞑るとグイと引っ張られる力を感じた。開いた目に入ってきたのは視界がぼやけるほど近い先生の顔。口布越しの感触に驚いて声が出ない。
「次は、家で」
 唇を口布に触れさせたまま言うので、言葉が逃げ場を失って体の底に落ちていった。次? 家? 混乱したまま固まる俺から手を放し、先生がアパートの階段を昇ってゆく。カンカンと鳴る足音が夜気に溶けていった。
2021/08/29(日) 16:58 ヒトリ COMMENT(0)
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