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※2022ir誕の続きです



 報告書を覗き込む頭の上で括った黒髪が揺れる。目の前の誘惑に惹かれながらも、自分に与えられた分は使い切ってしまったのだからと手は下ろしたままだ。
 人間には定量というものがあるのだろう。分をわきまえなければ、相応のしっぺ返しが来る。残酷で平等な当たり前。

 そもそも何かに期待することなど無い人生をおくってきた。お前は“何か”が望みを受け入れるような時間を過ごしてきたのかと問われたら、否としか答えられない。
 端から分かっていることを望むような愚かさを持っていれば、もっと違う道を歩んでいたのかもしれないが、俺は俺だ。どうしようもない。
 うっかりと踏み出したのが間違いだったのだから、程よく修正されただけ。俺が元に戻ったように、彼も彼のあるべき場所へと戻った。俺達は友人としての一線を越えるべきではなかったのだろう。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
 受付の笑顔はいつもと同じ。彼が受付へやってくる帰還者たちに向けるものと変わらず、それ以上の感情は感じられなかった。
 二人の間にはひょいと乗り越えられそうなカウンターがある。だけど乗り越えることはしない。それで正しい。
 軽く頭を下げて背を向ける。
 あの日から何回も同じようにここで顔を合わせたが、ようやく理解できそうだ。時間がかかってしまったが、おそらくは彼の特別な日だけでなく、自分の特別な日も終わってしまったからかもしれない。



 友人としても距離を保ちながらも、ちょっとしたことで境界をはみ出してしまうほどの好意を持たれているのは分かっていた。人生で初めての感情と甘い香りで包まれたような心地好さ。夢中になるのは当然だったし、自分の感情に気づいたと同時に湧いた独占欲は、初めての感情が恋である何よりの証だった。
 すんなり認めることができたけれど、実際に手に入れてみたら温かさとは真逆の思考に覆われた。どれだけ順調でも、いずれ終わりが来るのは分かっている。理由とか相手は問題じゃない。単純に、そう決まっているのだ。分かっているからといって何も感じないわけではないのだが。
 関係の変化にゆっくりと時間をかけることで、終わりへ辿り着くのを送らせてみてもしょせん悪足掻きにすぎない。表面上は取り繕っていたつもりだが、やはり誤魔化されてはくれなかったようだ。
 俺は、忍である自分を取り上げられそうになった。己の分を忘れた代償だろう。みなが縋る“何か”など信じないと言いながら、俺が一番そいつを身近に感じるのは皮肉なものだ。人は善意よりも悪意を強く感じるのだから、当たり前とも言える。
 忍でなくなった自分など想像がつかないけれど、先生のいない生活だって想像すらしたくなかった。どちらも必要不可欠になっている。忍であることと同じ比重の人を得るとは。それがこんなにも悩ましいとは本当に驚きだ。
 いつまでも夢の中にいるような時間を過ごしていたせいか、まるで目を覚ませと言われたようだった。自分自身を取り上げられるような焦燥感に、持て余す時間はすべて先生へと向かう。いままで自分に与えられていた忍としての時間も彼へと注ぎ込むことで、それまで以上に彼に尽くした。愛しい人とともにいることで、ふいに湧く恐怖を誤魔化そうと必死だ。
 純粋に彼への気持ちだけだったと認めるには後ろ暗く、色んな感情に蓋をしていた。どちらも同じくらい大事なものを得た結果、取り上げられたのは彼だ。
 俺はどちらを選ぶべきだったのか分からない。忍として動ける自分にホッとしたのも確かなのだ。
 でも一人で家に帰るのを厭うように足が酒へ向く。今日も飯を食べるためと言いながら居酒屋へ向かった。



 酒で火照る体を夜風が冷やす。歩き慣れた道とありふれた月夜なのに、いつのまにか変わってしまった。どうしても足りない人が頭から離れず、酒が足りなかったと悔やむ。
 これ以上は飲み過ぎだと思いながらアパートの前へ辿り着くと、必ず一度足が止まった。ひょっとしたら、今日こそは先生がドアの前で待っているのではないか。一瞬で打ち消される願望で、毎回定位置に足が張り付く。ため息を吐いてから階段を上って、やっぱりという薄笑いとともに鍵を取り出すのは決まり事のようなものだ。
 たぶん、明日からは酒が消える気がする。ひょっとしたら足が張り付くこともなくなるかもしれない。こういうことは理由もなく分かってしまうものだ。そしてよく当たる。
 今日で終わりだろうなと思いながらやっぱり足は一度止まり、再び階段を上り始めた。廊下を見渡せる場所まで上がり、いつものように笑いかけてひゅっと息を飲んだ。
 彼はいない。けれど、ドアの前に何かある。薄暗い廊下にぽつんと段ボール箱が置いてあった。
 うるさい心臓の音に息を詰め、足元へ屈み込んだ。一気にテープを剥がせば、浮いた蓋の隙間から見える忍服。それ以上は、確認しなくても分かる。
 握っていたテープを離して立ち上がった。階段を降りるのがもどかしくて柵を越えて飛び降りる。息を止めていた胸が苦しい。彼の家へ近づくごとに、痛い。



 数ヶ月ぶりに訪れた家は俺がいなくなっても何も変わっていなかった。鍵を挿す代わりにドアをノックする。すぐに開いたドアから覗く先生の表情は暗い。
「……どうしたんですか」
「家の前に、荷物が」
「ああ。あなたの物を詰めたんで」
「ど、」
 どうして、と聞くのもおかしな話だ。俺達はとっくに別れている。もう何ヶ月も前に。この部屋の鍵は彼に返した。それも本人から言われてだ。
 言い竦む俺にふいと背を向けて、先生は居間へ戻っていった。漂う線香の匂いに、大事な時を邪魔してしまったのかもしれないと気づく。
 一瞬迷ったが、すぐにサンダルを脱いで上がった。哀れに打ち捨てられた俺と対照的に心を傾けられている誰かがいる。そんなことを想像するだけで腹の底がムカつくのだ。
 先生は卓袱台の上に置いた線香の前に座った。すうと上った線香の煙がゆらりと解けて、部屋の中を漂いながら消えてゆく。右へ左へくねって己の香りを撒き散らし、姿だけは隠しても残り続ける存在感。残り香だけを追っていたら消えてしまったことに気付けない。もうとっくにいなくなっていたとしても。
「大事な時間を邪魔してごめんなさい」
「ああ、別にそんなんじゃ。線香が残ってたんで煙を見たくて」
「煙を?」
「ぼーっと見つめてる内に形にならないものを形にしちまおうと思って。そういう整理が必要な時ってあるんですよ。カカシさんには分からないかもしれんけど」
 何をと聞いても教えてくれないだろう。ただ部屋の前に置かれていた段ボール箱と薄い煙がぼんやりと見せてくれるだけだ。絶対とは言えなくても縋るべき欠片がまだここにある。
「整理してほしくない。いまさらって思われてもいい。もう一度、返した物を預けてくれませんか」
「ふふっ」
 漏らした笑いの冷たさに胸が凍り付く。完全に心が離れてしまったのか。
「あなたはこう……、そうだなあ風見鶏みたいな。うん。そうだな風見鶏だ」
 うんうんと頷きながら人差し指を上げる。真上に上る線香の煙を追うようになぞってゆらゆらと左右へ揺らした。
「風が吹いたらそっちを向くしかない。どれだけ思うものがあっても、どうしようもないんですよ。最初はくるくる回るあんたを全部欲しいって思ったけど、少しずつ変わっていって。いつもあっちこっちを向くあんたが、じっと止まっていられる場所になれたらなあって思うようになった。俺を大切に思ってくれてるのを感じてたから、きっとそうなれるって思ってた。でもそうはなれなかった」
「俺、先生のことが好きだよ」
「知ってます。でも俺のこと信じてないでしょう」
「そんな」
「そうだよ」
 また小さくふふっと笑う。冷たかった体を一気に血が巡って汗が噴き出してきた。
 いま何かを言わなければ本当に終わる。間違いなくこれが最後だ。
 この瞬間が勝負だと分かっているのにひりつく喉からは何も出てこない。こんなにも思っているのに、先生へは何も伝わらない。どうすればいいんだ。
 ただの知識でしかなかった事柄が、実感を持って現実となる。先生と過ごす日々で何度も経験した。
 その中で最も強くやきついたのは誕生日。誰にでもあるその日が、特別な日として大切に包んでおかねばならない日だと分かったのは、彼のおかげだ。
 俺達が別れたのは、二人が恋人として迎えるはずだった彼の特別な日だ。その特別な日を取り上げられるのが、自分には相応なのだろうと思った。それまでが幸せすぎたから仕方ない。
 分かっていても痛いものは痛いし、思い出すとため息が出る。目を閉じて堪え、必死で言葉を絞り出した。
「俺はあなたといると心地好くて。だけどそう感じれば感じるほど怖かったよ。いつもの自分でいることで大丈夫だって言い聞かせてきた」
 でもそれを見せないようにしていたのは、彼に呆れられたくなかったから。はたけカカシを好きになった先生に、ずっと好きでいてほしかった。過酷な任務でも当たり前のように受付で報告書を提出する俺を見るそのままで、ずっと傍にいてくれたらと思っていた。そうすれば心の内も気づかないフリをできる。
「やっぱり信じてねえじゃねえか!」
 部屋の空気がビリビリ震える。突然の怒声に目を開けると、先生は発した言葉の強さとは反対に苦しげに目を潤ませていた。
「俺が里の誉じゃないただのはたけカカシになったら見捨てると思ってたのか?いつものあんたじゃなきゃ好きじゃなくなるって」
 言い終える前にボタボタッと涙が落ちた。拳で拭って目を真っ赤にしながらそれでも溢れる涙を堪えている。
 瞬きと一緒に落ちる涙を見ながら、唐突に理解した。
 
 彼と俺は違う。一生理解しあえない。
 どちらが悪いとか立場が違うとか、そういうことではなく、どうしても違う。

 きっと説明したら分かってくれるだろう。頭で理解して気持ちを寄り添って、それでも俺は、このすとんと全てが収まった感覚をずっと忘れない。俺とあなたはどうしようもなく“何か”が違う。

「分かった」
「なっに、が」
 ぐすっずびっと鼻を鳴らしながら先生が吐き捨てる。
「俺は一生くるくる回り続けるよ。あなたの言う通りだと思う。俺が止まるのは風が止んだ時だろうね」
「ふざけんな」
「もしも風が止まったら一緒にいてくれる?」
 ぐちゃぐちゃだった泣き顔がさらに歪む。ひっと喉が鳴ったのを合図にもう涙を堪えなくなってしまった。申し訳ないと思いつつ胸の疼きが収まる。
 風見鶏のように回る俺が止まるには、忍としてのはたけカカシか俺自体が動かなくなるかしかなかった。二人ともよく分かっている。
 先生はこんな酷い例えに頷く人じゃない。むしろ怒りを突き抜けて完全に見放されてもおかしくなかった。だけど、否定も肯定もせずただ泣くだけ。苛立ちの涙を零しながら、まだ目の前の男を見捨てられない。
「ふふっ」
「笑うな」
 短い言葉に滲む怒り。俺はこの人に腹が立つほど愛されている。
 ポーチを探って鍵を取り出した。先生の前で片膝をつく。
「これ持っててください。あなたにあげる」
「……」
 卓袱台の上に置かれた鍵を複雑な表情で見つめる。とっくに別れた男から鍵をもらったところで戸惑うのも当然だ。
「俺の持ち物はここに全部ある。俺の持ってる物は、この鍵の部屋にあるものと俺自身だけ。全部あなたにあげるよ。その代わり一生迷い続けて」
 俺達は一生理解しあえないから。続く言葉を飲み込んで笑う。
 
 先生が持つ不安と俺の感じる恐怖が重なることはないだろう。根っこは同じだけど見ている部分が違うのだ。俺の目に映るものが彼の目に映ることはない。だから先生が理解してくれないように、俺が先生の不安を取り除くこともできない。俺の恐怖はどれだけ俺達が思い合っても関係ないと言ったところで、彼に何ができるというのか。
 俺にしたってあれだけ尽くしていたのが不安に繋がったと言われたらどうしようもない。お互い愛し合えば愛し合うほど不信が募るなんて、もう喜劇だ。
「帰ってくるからさ。全部って言ったんだからちゃんと両方揃えるよ」
 出来もしない約束だと承知の上で、それでも結ぶ。一番大事なことをあなたと。あなたとだけだ。
「愛してるって言ったら信じる」
 思いがけない言葉にまじまじと見つめてしまった。そんな言葉で振り切れるのか。それこそ何百回と言ってきたはずなのに。
「あ」
「やっぱいい」
「ちょっと!」
「これ合鍵ですか」
「ううん。俺の」
「自分の鍵渡しちゃってどうするんだよ」
「でも合鍵作って、ずーっと持ってましたってのもアレじゃない?付き合ってる相手に渡せなくてうじうじしてんのどうかと思うし、別れた恋人にって持ってたなら薄ら怖いし」
「薄らじゃなくてしっかり怖いわ。てかこれ渡しちゃって俺がいなかったらどうやって家入るんだよ」
「……破る?」
「アホか」
「そうなの。俺、けっこう抜けてるのよ」
 濡れた睫をぱちぱちさせて先生が覗き込んでくる。にこりと笑いかけるとぎゅっと眉が寄るので嬉しくなって抱きついた。
「どんなあんたもって言ったけどなあ」
「有言実行でしょ」
「あんたもだろ」
 言葉と一緒に肩口へ温もりが落ちてくる。久しぶりの黒髪をそっと撫でた。
2023/01/30(月) 10:54 記念日 COMMENT(0)
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