◆各種設定ごった煮注意
解説があるものは先にご確認ください
※雨障の二人
春の映画を見ませんか、と言ったのはうみのさんだった。
「春……、春……。桜とか?」
何か目当てがあるのかと思ったけれど、宙を見ながら呟いた言葉に、ただ春と言っただけなのだと分かった。
桜と聞いて頭に浮かんだのは、父が持っていた古い邦画。穏やかで綺麗な桜の景色を思い出し、これしか無いと思った。
ちょうど数年前にビデオテープからデータを移してあったので、ビデオデッキの無いこの家でも見ることが出来る。まるで今日の為に準備していたようだと思ってしまったのは、少し浮かれていたからかもしれない。
彼に、俺の記憶の中にあるものを一緒に見てもらう。ちょっと恥ずかしい特別な時間を、共有する。それを嬉しいと感じるのは、うみのさんだから。伝わって欲しいような絶対に悟られたくないような、複雑な気持ちだ。
映画を見終わったうみのさんは、ふうっと息を吐き冷めたコーヒーをぐっと呷った。
「街がね、春なんですよ」
「春?確かに最近暖かくなりましたね」
「そうじゃなくて」
空のカップを弄びながら困ったように眉を下げる。
見当違いなことを言ってしまったのかと、残り数センチのコーヒーしか入っていないカップを持ち上げて顔を隠した。苦い汁を啜って、眉間の皺がさらに深くなった気がする。
「重いコートを脱いで街を歩く人達がね、春なんです。黒や焦げ茶ばかりだった世界が、パステルカラーでいっぱいになって。店の飾りも桜がいっぱい使われてたりして、ピンク色に溢れてる。春なんですよ」
ああ、と頷いてカップを下ろす。
外を歩くのは好きでは無い。いつも目的地に向かって進むだけ。辺りを見回したり行き交う人々の格好など気にしたことがなかった。
うみのさんは俺が俯いて歩く道を、顔を上げて進む。目に入る景色や感じる空気が違うのだろう。彼の発する「春」という言葉には色がある。気温の変化だけではなく、街の色、降り注ぐ光の強さ、世界を包む空気にまで。それが彼の「春」なのだ。
「スーパーに行っても桜餅とか桜蒸しパンとか、増えたでしょう?あと苺とか」
「ああ、確かに苺は最近よく見るような」
「でしょう!苺安くなってきましたよね~。食べたくなる」
華やかな春の話をしていたはずが、妙に所帯臭い話になってしまった。うみのさんらしい。
堪えきれない笑いが喉の奥で妙な音を立てた。誤魔化そうと持ち上げたカップは既に空だ。
ふふっと笑われて顔が熱くなる。
「お花見したいですね」
「花見?」
「ええ。桜が咲き始めたんですよ。一緒に見たいなあ」
言いながら彼もまた、カップを持ち上げた。とっくに空なのは分かっているのに。
コーヒーと一緒に飲み干したかった言葉は、聞かなくても分かった。でも、どうしても「はい」とは言えなくて、カップを握り締めた。
三日後、いつものように図書館へ本を返しに行った。返却後予約していた本を受け取り、入り口を出た所でメッセージが届いた。
はたけさん時間あります?
あまりのタイミングの良さに、思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。平日の午前中、通りを歩く人すらほとんどいない。
5分だけ待ってます
ぽんと浮かんだメッセージに走り出した。彼が「待っている」と言うのなら、向かう場所は決まっている。
子ども達が遊ぶ広場を抜け公園の隅へ。ぽつんと置いてある電車に足を緩める。階段を上がって車両の中を覗いたら、いた。
笑った彼が手を振る。走ってきた体が熱く、心臓が鳴り止まない。
「大体この時間かなって思ってたらドンピシャ。俺はたけさんの行動パターン完全に見切ってる」
「た、たまたまですよ」
「そうかな~?」
楽しそうに笑いながら隣を叩くので大人しく座った。春の日差しで温まった座席はぽかぽかしている。
「じゃあはいっ」
どうぞと手渡されたカップを受け取ってしまった。蓋付きのプラカップには淡いピンク色がみっちりと詰まっていて、見た目以上の重量感がある。見るからにコッテリとした重たそうな液体は、以前にうみのさんが飲んでいたものと同じだと思うのだが、これをどうすれば良いのだろうか。何よりも気になるのは。
「これは餅?」
「ほぼ正解!八つ橋と白玉です」
「ああ八つ橋……。ん?白玉!?」
「中に入ってんですよ。ちーっちゃいの」
「えーっと」
甘いものは得意ではない。特にこんなゴッテリ甘そうなものはほとんど口にしないのだが。
飲んでみろという圧を感じるが、口に入れることを想像しただけで胸焼けがしそうだ。
大体飲み物に八つ橋を載せるなんて、どうやって食べろというのだかさっぱり分からん。そもそもが半液状の飲み物だからといって、こんなに明らかに固形物をストローで吸い込めるのか?
手に持ったピンク色を眺めながらシミュレーションしてみるものの、どうやったって八つ橋を吸い込むことは出来なかった。一度口をつけたら最後まで飲まなければ失礼だろう。だからこそ腹を決めてからと思っていたのだが、逡巡を見抜いたようにひょいっとカップを取り上げられた。
「これは俺が飲みますね。はたけさんはこっちで」
新たに取り出されたのは、普通のサイズの紙カップだった。あのゴテゴテドリンクは飲まなくて良いらしい。
ありがたく受け取ろうとした手を制される。うみのさんは、膝の上でカップにつけられていた蓋を外した。白い泡の上に桜の花が咲いている。そっと描かれた桜が飛ばないように渡してくれた。
「ほら、キレイでしょう」
「はい。チョコレートですか?」
「一個ずつ描いてくれるんですよ。この公園には桜が無いんで、代わりにこれで」
ハッとして、ラテの桜へと落ちていた視線が彼の顔へと跳ね上がる。
「やっぱり甘いですけど、ミルクが強いからこっちよりはイケると思います。一応ブラックも買ってますから」
「飲んだら散っちゃいますけど」
「そうしたら」
俺の言葉尻に被せるようにして声を上げたうみのさんは、ふいと傍らの紙袋へ視線を移した。そこにも桜が咲いている。
「また、一緒に見ましょうよ。いつでも」
うみのさんが言った通り、色んな所で桜が咲いている。彼が連れてきた春が、俺の手の中で咲いていた。暖かく色付いた春が。
「はい。いつでも、来年も」
ばっと振り返ったうみのさんがぎゅっと口を引き結ぶ。一文字になった唇がプルプルしていた。俺にまで聞こえる勢いで思い切り息を吸い、閉じていた口を開く。
動き出す唇を見ていられずに、カップを持ち上げた。花弁を飛ばさないように口をつけたら、想像の何倍も甘い。桜色の液体を飲み込んだ体が、春の香りに包まれている気がした。
いつでも、来年でも。なら、今日だっていい。
夜空に光る星が明るい。町中でもしっかりと見えるほど輝いているなんて、星はなんと勤勉なことか。誰に対しても公平に光を与えてくれる尊さまで持っている。怠惰な俺は、マンションの入り口に寄りかかってぼんやりと見上げているというのに。
くだらんことを考えて自分を落としてしまうのは、不安な心が渦巻いているせいだ。まだかまだかと見つめる先は、野良猫一匹通らない。落ち着く為に大きく息を吐き出し、ついでにぐーっと伸びをする。首を回したら骨がポキポキ鳴った。
スマホを取り出して時間を確かめる。約束の時間まであと十分。そろそろ現れてもいいはずだ。
もう一度と道の先へ目を凝らす。ようやく車が一台、通り過ぎるライトを追って目を戻したら、暗闇の中に人影が見えた。外灯の薄い明りの輪へ進み出たのはうみのさんだ。驚いた顔のまま小走りで駆け寄ってくる。
「はたけさん?どうしたんですか」
「ちょっとコンビニへ行きたいなと思って。お迎えしてみました」
「えー?嬉しいな」
はにかんで頬をかく姿に恥ずかしくなった。言葉もなく唐突に歩き出す。後を追う気配に振り向かず歩き続けた。
夜で良かった。顔が赤くなっていても、きっと彼には分からない。
深夜にはまだ間があるけれど、大抵の人は家へと帰っている時間だ。コンビニにもほとんど客がいなかった。
「何を買うんですか」
「飲み物を。うみのさんは、ビール飲んだりしますか?」
「発泡酒やチューハイ専門ですよ。ビールは高くって。あ、これは良く飲むヤツ」
「の、う、うみのさんが飲んでみたいのって、あります?」
「んー、これかな」
うみのさんが指差した缶を二つ取る。まっすぐレジへ向かって缶ビールを二本買った。会計を済ませて店を出る。
「珍しいですね。はたけさんと酒の組み合わせ、初めて見たな」
「飲めないわけじゃないんですよ。飲もうと思わないだけで」
「じゃあそれは?」
不思議そうな顔へ曖昧に笑い返し、来た道とは反対の方角を指差した。
「よ、寄り道しても良いでしょうか」
「もちろん。日中はだいぶ暖かいけど肌寒いですね。はたけさん薄着だけど大丈夫です?」
「は、はい」
こくこく頷いてさっきよりもゆっくりと歩き出した。心臓が口から飛び出そうで早く進みたいのだけれど、勢いに任せて足を動かしたら体がついていけなくてぶっ倒れそうだ。
暗い道を歩きながら、少しでも早く見えないかとじっと先を見つめ続ける。昨日見た時は咲いていた。雨も降らなかったし、きっとまだ大丈夫なはずだ。
ぼんやりと灯る光の中に浮かぶ桜色を見つけてホッとした。嬉しさのあまりぐっと足が速くなる。
「え、はたけさん?」
「大丈夫でした!」
「え?」
小さな鳥居が一つだけ。町のお社はとても簡素で、でもとても丁寧に清められている。落ち葉の無い石畳の上に散る桜の花弁を灯籠が照らしていた。
「ここ、昨日見つけたんです!樹があるのは知ってたんですけど、桜だなんて知らなくって。少しだけど、ほら、桜が」
興奮して振り返る。すぐ後ろをついてきていると思っていた彼との距離は、思ったよりも遠かった。夜の中ではどんな顔をしているのかよく見えない。
ひやりと背筋を汗が伝った。つられたように夜気の冷たさを感じ、我に返る。一人で勝手に突っ走って強引に連れ出してしまったけれど、彼にとってはただ振り回されて訳が分からないに違いない。いつもは、部屋で映画を見るだけなのに。
正直に言うと、途中から後ろを歩くうみのさんのことなんて頭の中から吹っ飛んでいた。何の為にわざわざ出迎えたのか、普段飲みもしない酒を買ったのか、その理由である人を置き去りにしてしまっている。
失敗した。ちょっと調子が良いとすぐ浮かれてしまって、いつもそうだ。この人に何度同じ思いをさせるのだろうか。何でいつもうみのさんにだけ、俺は。うみのさんにだけはと思っているのに。
「はたけさん、戻って」
「はい」
俯いて石畳の上を戻る。うみのさんは神社の外で動かずに待っていてくれた。どんな顔をしているのか、見ることも出来ない。
「神社は神様の境界でしょう。特に陽が落ちてからは勝手に入っちゃ駄目です、ちゃんとご挨拶しないと」
ピンと背を伸ばして丁寧に一礼する姿を慌てて真似る。次はどうするのかと見ていたら案外すたすたと進んで行くので、今度はこっちが入れなくなってしまった。
さっきとは逆に、桜の下に立つうみのさんが振り返る。
「ごめんなさい。ちゃんとなんて言ったけど、正しい作法を知ってるわけじゃなくって。昔父ちゃんが、他所のお宅にお邪魔する時は挨拶すんだろーって言ってたのを覚えてるだけだから。桜、キレイですね」
頬を緩めて桜を見つめる瞳に力が抜ける。緊張していた体が安堵で溶けてしまいそうだ。
うみのさんはこんなことで呆れたりしないと分かっていても、ついやってしまったと俯いてしまう。まだどこまで踏み出せば良いのか分からないけれど、踏み出したい気持ちは大事にしてゆきたいのだ。きっとそれを分かってくれる人だから。
歩きながらビニール袋から取り出した缶を彼に渡す。
「ありがとうございます。叶えてくれたんですね」
「よ、夜桜だし、少ししか咲いてないけど」
「充分ですよ!二人占めだ」
嬉しそうにニッコリと笑う顔が眩しい。つられるように笑みが浮かんだ。
「二本あるんですよね?」
「はい」
「半分こでもいいです?」
「え?」
「一本を半分こ」
「いいですけど……」
「じゃあ一本はお供え」
小さなお社の前にある賽銭箱の横にちょこんと缶を置く。手を合わせる背中をぼけっと見てたら笑いながら「はたけさんも」と呼ばれた。隣に並んで手を合わせる。
「あ、しまった。乾杯が出来ないか」
「あ、じゃ、じゃあ俺もう一本」
「まあいっか」
ぐいと手を引かれ、桜の下のベンチに座らされた。一緒に座ったうみのさんは、残った缶ビールを開ける。
「はい」
「は、はい?」
「だから」
行儀良く膝の上に置いていた手を取られた。一本の缶ビールを二人で持つ。
「はい、カンパーイ」
「カ、カンパイ……」
ぎこちなく腕を伸ばす俺を見てうみのさんが楽しそうに笑う。
ビールと夜と桜の香り。彼と一緒に春が来た。
春の映画を見ませんか、と言ったのはうみのさんだった。
「春……、春……。桜とか?」
何か目当てがあるのかと思ったけれど、宙を見ながら呟いた言葉に、ただ春と言っただけなのだと分かった。
桜と聞いて頭に浮かんだのは、父が持っていた古い邦画。穏やかで綺麗な桜の景色を思い出し、これしか無いと思った。
ちょうど数年前にビデオテープからデータを移してあったので、ビデオデッキの無いこの家でも見ることが出来る。まるで今日の為に準備していたようだと思ってしまったのは、少し浮かれていたからかもしれない。
彼に、俺の記憶の中にあるものを一緒に見てもらう。ちょっと恥ずかしい特別な時間を、共有する。それを嬉しいと感じるのは、うみのさんだから。伝わって欲しいような絶対に悟られたくないような、複雑な気持ちだ。
映画を見終わったうみのさんは、ふうっと息を吐き冷めたコーヒーをぐっと呷った。
「街がね、春なんですよ」
「春?確かに最近暖かくなりましたね」
「そうじゃなくて」
空のカップを弄びながら困ったように眉を下げる。
見当違いなことを言ってしまったのかと、残り数センチのコーヒーしか入っていないカップを持ち上げて顔を隠した。苦い汁を啜って、眉間の皺がさらに深くなった気がする。
「重いコートを脱いで街を歩く人達がね、春なんです。黒や焦げ茶ばかりだった世界が、パステルカラーでいっぱいになって。店の飾りも桜がいっぱい使われてたりして、ピンク色に溢れてる。春なんですよ」
ああ、と頷いてカップを下ろす。
外を歩くのは好きでは無い。いつも目的地に向かって進むだけ。辺りを見回したり行き交う人々の格好など気にしたことがなかった。
うみのさんは俺が俯いて歩く道を、顔を上げて進む。目に入る景色や感じる空気が違うのだろう。彼の発する「春」という言葉には色がある。気温の変化だけではなく、街の色、降り注ぐ光の強さ、世界を包む空気にまで。それが彼の「春」なのだ。
「スーパーに行っても桜餅とか桜蒸しパンとか、増えたでしょう?あと苺とか」
「ああ、確かに苺は最近よく見るような」
「でしょう!苺安くなってきましたよね~。食べたくなる」
華やかな春の話をしていたはずが、妙に所帯臭い話になってしまった。うみのさんらしい。
堪えきれない笑いが喉の奥で妙な音を立てた。誤魔化そうと持ち上げたカップは既に空だ。
ふふっと笑われて顔が熱くなる。
「お花見したいですね」
「花見?」
「ええ。桜が咲き始めたんですよ。一緒に見たいなあ」
言いながら彼もまた、カップを持ち上げた。とっくに空なのは分かっているのに。
コーヒーと一緒に飲み干したかった言葉は、聞かなくても分かった。でも、どうしても「はい」とは言えなくて、カップを握り締めた。
三日後、いつものように図書館へ本を返しに行った。返却後予約していた本を受け取り、入り口を出た所でメッセージが届いた。
はたけさん時間あります?
あまりのタイミングの良さに、思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。平日の午前中、通りを歩く人すらほとんどいない。
5分だけ待ってます
ぽんと浮かんだメッセージに走り出した。彼が「待っている」と言うのなら、向かう場所は決まっている。
子ども達が遊ぶ広場を抜け公園の隅へ。ぽつんと置いてある電車に足を緩める。階段を上がって車両の中を覗いたら、いた。
笑った彼が手を振る。走ってきた体が熱く、心臓が鳴り止まない。
「大体この時間かなって思ってたらドンピシャ。俺はたけさんの行動パターン完全に見切ってる」
「た、たまたまですよ」
「そうかな~?」
楽しそうに笑いながら隣を叩くので大人しく座った。春の日差しで温まった座席はぽかぽかしている。
「じゃあはいっ」
どうぞと手渡されたカップを受け取ってしまった。蓋付きのプラカップには淡いピンク色がみっちりと詰まっていて、見た目以上の重量感がある。見るからにコッテリとした重たそうな液体は、以前にうみのさんが飲んでいたものと同じだと思うのだが、これをどうすれば良いのだろうか。何よりも気になるのは。
「これは餅?」
「ほぼ正解!八つ橋と白玉です」
「ああ八つ橋……。ん?白玉!?」
「中に入ってんですよ。ちーっちゃいの」
「えーっと」
甘いものは得意ではない。特にこんなゴッテリ甘そうなものはほとんど口にしないのだが。
飲んでみろという圧を感じるが、口に入れることを想像しただけで胸焼けがしそうだ。
大体飲み物に八つ橋を載せるなんて、どうやって食べろというのだかさっぱり分からん。そもそもが半液状の飲み物だからといって、こんなに明らかに固形物をストローで吸い込めるのか?
手に持ったピンク色を眺めながらシミュレーションしてみるものの、どうやったって八つ橋を吸い込むことは出来なかった。一度口をつけたら最後まで飲まなければ失礼だろう。だからこそ腹を決めてからと思っていたのだが、逡巡を見抜いたようにひょいっとカップを取り上げられた。
「これは俺が飲みますね。はたけさんはこっちで」
新たに取り出されたのは、普通のサイズの紙カップだった。あのゴテゴテドリンクは飲まなくて良いらしい。
ありがたく受け取ろうとした手を制される。うみのさんは、膝の上でカップにつけられていた蓋を外した。白い泡の上に桜の花が咲いている。そっと描かれた桜が飛ばないように渡してくれた。
「ほら、キレイでしょう」
「はい。チョコレートですか?」
「一個ずつ描いてくれるんですよ。この公園には桜が無いんで、代わりにこれで」
ハッとして、ラテの桜へと落ちていた視線が彼の顔へと跳ね上がる。
「やっぱり甘いですけど、ミルクが強いからこっちよりはイケると思います。一応ブラックも買ってますから」
「飲んだら散っちゃいますけど」
「そうしたら」
俺の言葉尻に被せるようにして声を上げたうみのさんは、ふいと傍らの紙袋へ視線を移した。そこにも桜が咲いている。
「また、一緒に見ましょうよ。いつでも」
うみのさんが言った通り、色んな所で桜が咲いている。彼が連れてきた春が、俺の手の中で咲いていた。暖かく色付いた春が。
「はい。いつでも、来年も」
ばっと振り返ったうみのさんがぎゅっと口を引き結ぶ。一文字になった唇がプルプルしていた。俺にまで聞こえる勢いで思い切り息を吸い、閉じていた口を開く。
動き出す唇を見ていられずに、カップを持ち上げた。花弁を飛ばさないように口をつけたら、想像の何倍も甘い。桜色の液体を飲み込んだ体が、春の香りに包まれている気がした。
いつでも、来年でも。なら、今日だっていい。
夜空に光る星が明るい。町中でもしっかりと見えるほど輝いているなんて、星はなんと勤勉なことか。誰に対しても公平に光を与えてくれる尊さまで持っている。怠惰な俺は、マンションの入り口に寄りかかってぼんやりと見上げているというのに。
くだらんことを考えて自分を落としてしまうのは、不安な心が渦巻いているせいだ。まだかまだかと見つめる先は、野良猫一匹通らない。落ち着く為に大きく息を吐き出し、ついでにぐーっと伸びをする。首を回したら骨がポキポキ鳴った。
スマホを取り出して時間を確かめる。約束の時間まであと十分。そろそろ現れてもいいはずだ。
もう一度と道の先へ目を凝らす。ようやく車が一台、通り過ぎるライトを追って目を戻したら、暗闇の中に人影が見えた。外灯の薄い明りの輪へ進み出たのはうみのさんだ。驚いた顔のまま小走りで駆け寄ってくる。
「はたけさん?どうしたんですか」
「ちょっとコンビニへ行きたいなと思って。お迎えしてみました」
「えー?嬉しいな」
はにかんで頬をかく姿に恥ずかしくなった。言葉もなく唐突に歩き出す。後を追う気配に振り向かず歩き続けた。
夜で良かった。顔が赤くなっていても、きっと彼には分からない。
深夜にはまだ間があるけれど、大抵の人は家へと帰っている時間だ。コンビニにもほとんど客がいなかった。
「何を買うんですか」
「飲み物を。うみのさんは、ビール飲んだりしますか?」
「発泡酒やチューハイ専門ですよ。ビールは高くって。あ、これは良く飲むヤツ」
「の、う、うみのさんが飲んでみたいのって、あります?」
「んー、これかな」
うみのさんが指差した缶を二つ取る。まっすぐレジへ向かって缶ビールを二本買った。会計を済ませて店を出る。
「珍しいですね。はたけさんと酒の組み合わせ、初めて見たな」
「飲めないわけじゃないんですよ。飲もうと思わないだけで」
「じゃあそれは?」
不思議そうな顔へ曖昧に笑い返し、来た道とは反対の方角を指差した。
「よ、寄り道しても良いでしょうか」
「もちろん。日中はだいぶ暖かいけど肌寒いですね。はたけさん薄着だけど大丈夫です?」
「は、はい」
こくこく頷いてさっきよりもゆっくりと歩き出した。心臓が口から飛び出そうで早く進みたいのだけれど、勢いに任せて足を動かしたら体がついていけなくてぶっ倒れそうだ。
暗い道を歩きながら、少しでも早く見えないかとじっと先を見つめ続ける。昨日見た時は咲いていた。雨も降らなかったし、きっとまだ大丈夫なはずだ。
ぼんやりと灯る光の中に浮かぶ桜色を見つけてホッとした。嬉しさのあまりぐっと足が速くなる。
「え、はたけさん?」
「大丈夫でした!」
「え?」
小さな鳥居が一つだけ。町のお社はとても簡素で、でもとても丁寧に清められている。落ち葉の無い石畳の上に散る桜の花弁を灯籠が照らしていた。
「ここ、昨日見つけたんです!樹があるのは知ってたんですけど、桜だなんて知らなくって。少しだけど、ほら、桜が」
興奮して振り返る。すぐ後ろをついてきていると思っていた彼との距離は、思ったよりも遠かった。夜の中ではどんな顔をしているのかよく見えない。
ひやりと背筋を汗が伝った。つられたように夜気の冷たさを感じ、我に返る。一人で勝手に突っ走って強引に連れ出してしまったけれど、彼にとってはただ振り回されて訳が分からないに違いない。いつもは、部屋で映画を見るだけなのに。
正直に言うと、途中から後ろを歩くうみのさんのことなんて頭の中から吹っ飛んでいた。何の為にわざわざ出迎えたのか、普段飲みもしない酒を買ったのか、その理由である人を置き去りにしてしまっている。
失敗した。ちょっと調子が良いとすぐ浮かれてしまって、いつもそうだ。この人に何度同じ思いをさせるのだろうか。何でいつもうみのさんにだけ、俺は。うみのさんにだけはと思っているのに。
「はたけさん、戻って」
「はい」
俯いて石畳の上を戻る。うみのさんは神社の外で動かずに待っていてくれた。どんな顔をしているのか、見ることも出来ない。
「神社は神様の境界でしょう。特に陽が落ちてからは勝手に入っちゃ駄目です、ちゃんとご挨拶しないと」
ピンと背を伸ばして丁寧に一礼する姿を慌てて真似る。次はどうするのかと見ていたら案外すたすたと進んで行くので、今度はこっちが入れなくなってしまった。
さっきとは逆に、桜の下に立つうみのさんが振り返る。
「ごめんなさい。ちゃんとなんて言ったけど、正しい作法を知ってるわけじゃなくって。昔父ちゃんが、他所のお宅にお邪魔する時は挨拶すんだろーって言ってたのを覚えてるだけだから。桜、キレイですね」
頬を緩めて桜を見つめる瞳に力が抜ける。緊張していた体が安堵で溶けてしまいそうだ。
うみのさんはこんなことで呆れたりしないと分かっていても、ついやってしまったと俯いてしまう。まだどこまで踏み出せば良いのか分からないけれど、踏み出したい気持ちは大事にしてゆきたいのだ。きっとそれを分かってくれる人だから。
歩きながらビニール袋から取り出した缶を彼に渡す。
「ありがとうございます。叶えてくれたんですね」
「よ、夜桜だし、少ししか咲いてないけど」
「充分ですよ!二人占めだ」
嬉しそうにニッコリと笑う顔が眩しい。つられるように笑みが浮かんだ。
「二本あるんですよね?」
「はい」
「半分こでもいいです?」
「え?」
「一本を半分こ」
「いいですけど……」
「じゃあ一本はお供え」
小さなお社の前にある賽銭箱の横にちょこんと缶を置く。手を合わせる背中をぼけっと見てたら笑いながら「はたけさんも」と呼ばれた。隣に並んで手を合わせる。
「あ、しまった。乾杯が出来ないか」
「あ、じゃ、じゃあ俺もう一本」
「まあいっか」
ぐいと手を引かれ、桜の下のベンチに座らされた。一緒に座ったうみのさんは、残った缶ビールを開ける。
「はい」
「は、はい?」
「だから」
行儀良く膝の上に置いていた手を取られた。一本の缶ビールを二人で持つ。
「はい、カンパーイ」
「カ、カンパイ……」
ぎこちなく腕を伸ばす俺を見てうみのさんが楽しそうに笑う。
ビールと夜と桜の香り。彼と一緒に春が来た。
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