◆各種設定ごった煮注意
解説があるものは先にご確認ください
◇
受付は里の顔。依頼の多くはここを通して振り分けられるし、指令書の受け渡しや報告書の提出など様々な事務的作業も行っている。受付を無視して生きるというのは里に属する忍にとって不可能に近く、そこに座る忍は内勤といえどもかなりの情報通になる。火影直々に振られる任務は別だろうと思われるかもしれないが、任務内容はともかく里外へ出たということは誰かしらに把握されているものだ。受付が里にいる忍を把握していなければ、任務振り分けに支障が出てしまう。受付は忍にとっての生命線、頼りになってちょっと怖くて避けては通れない存在。喧嘩していようと付き合っていようと別れようと、忍同士かつ片方が受付勤務なら顔を合わせるのが自然なのだが。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
ニコリと笑う顔に引き攣った笑いしか返せない。まだ動いていないというのに後ろに立つ者へと声をかけられては、為す術もなく立ち去るしかなかった。
以前告白した時のように、逃げ回るのだろうと思っていたのは認める。あの時のように自分から覗きに行かなければ先生の顔は見られないなと自惚れていたのだが、未練があるのはお前だけだというように想像とは違う展開になった。先生と別れた次の日は不安と期待が入り混じった状態で受付へと向かったのだが、出迎えてくれた先生は至っていつも通り。ニコリと何の衒いもなく笑う顔は、本当にスッパリと俺の存在を消してしまったようで現実に打ちのめされた。完全に吹っ切ってしまったのかと想像するだけで胸が苦しい。どれだけ望もうと、もう先生の隣に立つことは出来ないのかもしれない。彼だけでなく先生までなくしてしまって、やるせなさが胸に募った。
先生の言うことは間違ってないし怒っても当然なのだが、だからといって割り切れない。消えてしまったと分かってはいるが、彼は俺にとって大切な人なのだ。彼が大切だから先生のことも大切だし、先生が大切だからこそ彼も忘れられない。この二つは俺の中では成立するのだが、受け入れてもらえるかは別の問題だ。もし彼を悪く言ったとしたら、たとえ先生でも冷静ではいられないだろう。消えてしまった人は繰り返し思い出す内に自然と美化されて、永遠に存在し続ける。
「拗らせてんなあ」
笑いながら出た言葉がぐっさりと自分に刺さった。彼を大事に出来なかったという思いがある。彼との時間には後悔が多く、吹っ切ることは難しい。同じ人なのだからと諦めてしまえば簡単なのは分かっているが、彼と先生とその両方とも出発点を間違えた。彼への悔いを先生に繋げた時点で道を誤っていたのだ。それは分かっているのだけれど、好きなのだ。好きだからどうしようもなくて、間違ってしまった。彼への後悔を先生へ向けたのは、先生に同じ思いをさせたくないという気持ちの表れでもある。どちらかではなく、二人を好きなのだ。だがこの結論が実を結ぶ日は来ないと気付いている。
◆◆◆
肉体的な疲労と精神的な疲労、不足をもう一方で補うにも限界がある。アカデミーの門で先生を待つこともなくなり、一緒に飯を食べる人もいなくなった。また一人の生活に戻っただけではあるのだが、癒やしのない生活はじわじわと心を蝕み、気持ちの切り替えが追いつかない。引き摺られるように身体の疲れが抜けなくなり、眠る時間も短くなる。たかが、恋だ。もっと酷い思いも味わったし、何故という疑問さえ浮かばない状態まで落ちたことだってあるのに、彼と付き合うまで二十年以上、知りもしなかった感情に振り回され続けている。
命の遣り取りをする生業だというのに気を取られていては碌なことがない。集中を欠いた結果は当然のように降りかかり雨の帳を裂くように山肌を駆けていた。受け止めきれない雨が地面の上を流れ、一足ごとに泥濘みへと沈み込むサンダルをチャクラで覆いひた走る。任務後の疲れた身体には冷たい雨が突き刺さり、どんどん体力を奪われてゆくのが分かった。元よりチャクラが減っていたのだ、そう長くは続かない。動けなくなる前に辿り着かなければと、一心不乱に足を動かした。
街道から逸れるように走る獣道へ分け入ると木々に囲まれた小さな小屋がある。国のあちこちには、各地へと任務に赴く忍達が不測の事態に避難出来るよう拠点が隠されており、ここはその一つだ。分厚い雨雲が覆う空は黒く、森の中は薄ぼんやりとしか光りが届かない。それでも真っ暗になる前に辿り着けて良かったと、解印を結んで中へ入る。少しでも水気を払おうとびしょ濡れのマントをバサバサ振ってみたものの大して変化はなく、諦めて戸口の横へと掛けた。まずは火起こしだと壁際に設置されているストーブへ火を入れる。張り付く手甲を引っ剥がし、両手を火にかざして温めながら緩く動かした。印が組めないと雨が止んでも出られない。ただでさえ予定外の滞在だ、少しでも回復するようにと湿ったポーチから取り出した兵糧丸を噛み砕いた。
雨脚は強くなるばかりで、大粒の雫がバタバタと屋根を叩く音を背景に時折薪の破裂音が混ざる。ストーブの上で温めていた鍋からじんわりと湯気が上り、鍋肌に沿った泡粒が踊り始めたのでカップを用意しようと腰を上げた時、微かに空間が揺れた。誰かが来たのだと脇にあったクナイヘ手を滑らせる。結界を解いたということは、同じ木ノ葉の忍だろう。だが、実際に入ってくるまでは気を抜けない。後ろ手に握ったクナイを見せないように戸口の方へ身体を向けた。勢いよく開いた扉から飛び込むように入ってきたのは、やはり木ノ葉の忍だったのだが、ある意味他里の忍が入ってくるより驚いた。
「すみませ……ん……」
いつもは頭の天辺で揺れるしっぽをへたらせて、ずぶ濡れの先生が立っていた。
マントから滴る水が土間を濡らす。突っ立ったままの足元を中心にして、黒い水たまりがじわじわと広がっていった。額当てを滑った雨が頬を伝い落ちて、思わず喉が鳴る。言葉をなくしたように瞳を丸くする顔と頬を濡らす雫は、彼の記憶を思い起こさせて一気に身体の熱が上がった。条件反射のように速度を増す鼓動を抑えきれず、クナイを握る手に力を込めた。忍としての得物は少しだけ心を落ち着かせてくれたので、静かに細く息を吐く。視界の端に入った動きに目を上げると、先生が一度閉めた扉をまた開けている所だった。戸口から吹き込む雨が顔に叩きつけられている。
「どうしたんですか?」
「ご迷惑なようなので出ます」
「そんなわけないでしょ」
慌てて立ち上がる俺を見て目元を歪める。そんな風に笑う人ではなかったのにと思うと胸が痛い。俺がそうさせているというのなら、いなくなるのは俺の方だ。外していたクナイホルダーを取り上げて足に着ける。まだ濡れたままの手甲は、ぐちゃりとした手触りで冷え切っていたが、気にせず填めた。
「何をしているんですか」
「気まずいのなら俺が出ます。先生は中へ」
広げて乾かしていたベストへ手を伸ばすとバシン! と扉を叩きつけた音が響いた。眉間に深い皺を寄せてこちらを睨み付ける先生が、ふーふー息を吐いている。剥ぎ取るようにして脱いだマントを思い切り振るので、部屋の奥にまで飛沫が飛んできた。出て行くのは諦めてくれたらしく、サンダルを脱いで板間へ上がるのを見てベストを羽織る。少しでも温まれたのは有り難い。戸口へ足を踏み出そうとしたら硬い声が聞こえた。
「出なくて良いです。カ……、あなたが平気なら一緒に」
俯きながら出された言葉をどう受け止めれば良いのか分からなかった。
ストーブの前でカップの茶を啜る。装備を外したアンダーだけの姿で向かい合うのは久しぶりだ。彼とは何度も、先生とは一度だけ。恋だ何だと浮かれていたけれど、先生との付き合いは外を出歩くことが多く、家へ行ったのは俺が逃げ出したあの日一度きりだった。家の中にいるようなリラックスした格好なのに、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む姿は記憶の中の二人とは重ならない。眉間に皺を寄せたり戸惑ったりという表情は見た覚えがあっても、これほどまでにあからさまで不機嫌そうな顔は見たことがなかった。誰かと一緒にいるのなら、楽しい嬉しいだけでは済まないことも出てくる。俺自身がかつて彼に抱いたように、負の感情だって芽生えて当然だ。でも二人ともそんな表情はほとんど見せたことがなく、付き合いの浅い先生はまだしも彼でさえ見せていなかったというのは関係の歪さと繋がっている。彼の遠慮がちな笑い顔と先生の屈託のない笑顔ばかり浮かぶというのは、俺達の不完全な関係を証明しているようだ。新しい顔を見せる目の前の人こそが、本当の彼なのだろう。ひょっとしたら先生もそうなったかもしれないが、そこに至るには時間が足りなかった。
嬉しい、と思うのは間違っているだろうか。彼にはこうであって欲しかったし、先生とはこうなりたいと願っていた。それを目の当たりにしては、薄らと笑いが浮かんだとしても仕方がないと思うのだ。ただしそれは俺の身勝手な意見でしかない。
「何が可笑しいんですか」
「先生が怒ってるなあと思って」
「怒ってるわけじゃないです。ただ、ちょっと痛いだけ」
痛いという単語を選択した胸中を思うとこちらも痛い。先生に自覚がなくともお互いに傷つけ合っているようなものだ。カップの水面を見つめる顔は曇っていて、必死で不機嫌な顔を取り繕っていたのだと分かり、笑ってないと泣いてしまうと叫んだ顔と重なった。これは最後のチャンスなのかもしれない。思いも掛けない偶然だからこそ縋ってみようかという気になった。
「話を聞いてもらえませんか」
下げたままの視線は上がらず、口元は引き結んだまま。それでも、否定されなかったことを肯定に変えた。
しんとした室内には雨音だけが響いている。うまく伝えられるだろうかと不安がるのはやめだ。余計なことを考えたり取り繕おうとすれば失敗する。泣きそうな顔で無理矢理笑っていた先生のように、俺もそのまま話せば良いのだ。
「好きな人がいます。最初は気付いていなかったけど、自覚した途端どうしようもなく必要な存在になりました。通じ合っていたとは言えないけれど、この先もずっと大切なことは変わらないし、忘れることもない。もう二度と会えなくてもずっと抱えていくと思います」
消えてしまった彼に会うことは出来ない。実際同じ人間だというのに、先生は俺に全く違う顔を見せていた。彼とは違う彼にしか好きだと告げられないのは哀しく、まるで自分の不甲斐なさをなぞっているようだ。それでも、先生には言っておかなければならない。二人で進む為には必要な行動だ。
「先生のことを好きだと言ったのは嘘じゃありません。今だって好きですよ。ただ、先生のことだけを好きとは言えない」
「……それって二股でしょ」
「合ってるけど違う」
「何だよそれ」
自嘲するような笑いを浮かべてカップを置いた。漸く上がった視線は一瞬だけ合わさったと思うと、両手で抱えた膝の中に沈んでしまった。潤む瞳は怒りよりも悲しさが滲んでいて、先生の苦悩を表している。憎んでしまえば楽だっただろうに、きっと俺のことを捨てきれないのだ。だからこそ、最後のチャンスをくれている。格好つけたり不安がったりしている猶予はなく、今すぐ全部吐き出すしか俺に残されていない。少しだけ力が欲しくてポーチの中に手を入れた。悩むことなどないのだと、前向きだった時の欠片がそこにある。皺の寄った紙の表面をそっと撫でて手を戻した。
「先生が記憶を失う前、俺達は付き合ってました。俺が好きなのはあなたです。記憶を失う前の、先生。二度と会えないかもしれないけど忘れることは出来ない」
「嘘だ」
間髪入れず飛んできた言葉に眉が下がる。そう言われても当然だ。誰にも気付かれなかった関係を教えてくれる人はいなかっただろうし、俺だって伝えなかった。告白した時にだってそんな素振りを見せるような真似はしていないのだ。信じる要素はどこにもない。
「本当なんですよ。俺達は付き合ってたし、俺は先生のことが好きでした」
「嘘だ」
「嘘は言ってません」
「嘘」
「先生」
俺達の間には形として残っているものが何もない。周囲の人間に言ったこともなければ贈り物をしたこともなく、二人の記憶は俺の頭の中だけなのだ。それでも、信じてもらわなければならない。
「証拠として見せられるような物はないけど、先生から俺に告白してくれて付き合い始めました。それで俺も先生のことを好きになって」
「嘘」
「先生」
「嘘言うなよ。カカシ先生は俺のことなんて好きじゃない」
膝の間から漏れてきた、くぐもった声に息が止まった。考えるよりも先に手が伸びて、膝を抱える腕を掴んでいる。動揺に震える指先が伝わってしまったかもしれないが、それでも構わない。
「先生なの? 先生だよね。思い出したの!?」
ゆさゆさ揺さぶっても、埋もれた頭を上げてくれない。身を乗り出して両手で掴む。今、確かに「カカシ先生」と言ったはずだ。先生なら俺のことはカカシさんと呼ぶ。俺をカカシ先生と呼ぶのは彼だけだ。掴む手に力が篭っても決して顔を上げようとしない。頑なな態度に彼だという確信が芽生えた。もう二度と伝えられないと思っていた言葉を伝えることが出来るのかもしれない。まだ湿った黒髪に額をつける。しっぽが当たって少し擽ったいが、懐かしい感触だ。耳を塞いで聞こえない振りをしても、くっついた額が振動が伝えてくれる。閉じられた腕の中に、抱えていた思いを流し込んだ。
「俺は先生のことが好きです。俺に告白してくれた先生が好き」
ピクリと動いた頭が嫌嫌をするように左右に揺れる。そうじゃない、本当だと膝を抱える彼ごと抱きしめるように腕を背中へ回した。囲い込んだ腕の中へ嘘じゃない、好きだと繰り返し囁き続ける。それでも彼は頷かない。
何度目かの遣り取りでとうとう伏せられていた頭が上がった。至近距離で見つめ合う瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「嘘ばっかり言うな。好きじゃないくせに」
「先生」
「だって、カカシ先生は好きなんて言ってくれたことなかった。好きになってくれたなら言ってくれたはずだ。俺は」
ぶわっと盛り上がった涙が決壊する。一度大きくしゃくり上げ、切れ切れになりながら声を捻り出す。
「あんたは、俺のこと、好きじゃなかったけど、俺は、好きだった」
いつも遠慮して控えがちに笑うだけ。期待や要求をしなかったのではなく、出来なかったのだ。何も言わない男がどう考えているのか分からずに、振り向いてくれるのを黙って待っていた。曖昧で微かなシグナルを受け止めることが出来ず一方的に不満を抱き、好き勝手に振る舞う男を前にしてどれだけの思いを押し殺していたのか。彼の苦しみを思うと、胸が潰れそうになる。包み込む腕に力を入れて覆い被さるように抱きしめる。
「ごめん、ごめんね先生」
「なんで謝るんですか」
「気付くのが遅くて、伝えられなくてごめんね。待たせてごめんなさい」
何も言ってくれなくとも待っていたのだと、好きだから諦められなかったのだと溢れる涙が教えてくれる。次から次へと流れ落ちる涙を拭ってあげたいけれど、勿体なくて手を解けない。黙って閉じ込められてくれるのは、俺の腕の中にいてもいいという証なのだ。二人の距離をなくすようにぎゅっと両手の輪を縮める。苦しそうに眉を顰めた先生が口を尖らせて呟いた。
「遅すぎるんだよ」
抱え込んでいた膝を解放して、躊躇いがちな手が背中に回る。しっかりと掴んで欲しくてぐっと抱きしめると、添えるだけだった手が強く抱き寄せてくれた。腕の中の頭を慈しむように何度も唇を落とす。くいとアンダーを引っ張るのでそっと腕を緩めると、濡れた瞳が柔らかく撓んでいる。目尻に溜まった涙を軽く吸うと、嬉しそうに頬が上がったのでそのまま口づけた。
受付は里の顔。依頼の多くはここを通して振り分けられるし、指令書の受け渡しや報告書の提出など様々な事務的作業も行っている。受付を無視して生きるというのは里に属する忍にとって不可能に近く、そこに座る忍は内勤といえどもかなりの情報通になる。火影直々に振られる任務は別だろうと思われるかもしれないが、任務内容はともかく里外へ出たということは誰かしらに把握されているものだ。受付が里にいる忍を把握していなければ、任務振り分けに支障が出てしまう。受付は忍にとっての生命線、頼りになってちょっと怖くて避けては通れない存在。喧嘩していようと付き合っていようと別れようと、忍同士かつ片方が受付勤務なら顔を合わせるのが自然なのだが。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
ニコリと笑う顔に引き攣った笑いしか返せない。まだ動いていないというのに後ろに立つ者へと声をかけられては、為す術もなく立ち去るしかなかった。
以前告白した時のように、逃げ回るのだろうと思っていたのは認める。あの時のように自分から覗きに行かなければ先生の顔は見られないなと自惚れていたのだが、未練があるのはお前だけだというように想像とは違う展開になった。先生と別れた次の日は不安と期待が入り混じった状態で受付へと向かったのだが、出迎えてくれた先生は至っていつも通り。ニコリと何の衒いもなく笑う顔は、本当にスッパリと俺の存在を消してしまったようで現実に打ちのめされた。完全に吹っ切ってしまったのかと想像するだけで胸が苦しい。どれだけ望もうと、もう先生の隣に立つことは出来ないのかもしれない。彼だけでなく先生までなくしてしまって、やるせなさが胸に募った。
先生の言うことは間違ってないし怒っても当然なのだが、だからといって割り切れない。消えてしまったと分かってはいるが、彼は俺にとって大切な人なのだ。彼が大切だから先生のことも大切だし、先生が大切だからこそ彼も忘れられない。この二つは俺の中では成立するのだが、受け入れてもらえるかは別の問題だ。もし彼を悪く言ったとしたら、たとえ先生でも冷静ではいられないだろう。消えてしまった人は繰り返し思い出す内に自然と美化されて、永遠に存在し続ける。
「拗らせてんなあ」
笑いながら出た言葉がぐっさりと自分に刺さった。彼を大事に出来なかったという思いがある。彼との時間には後悔が多く、吹っ切ることは難しい。同じ人なのだからと諦めてしまえば簡単なのは分かっているが、彼と先生とその両方とも出発点を間違えた。彼への悔いを先生に繋げた時点で道を誤っていたのだ。それは分かっているのだけれど、好きなのだ。好きだからどうしようもなくて、間違ってしまった。彼への後悔を先生へ向けたのは、先生に同じ思いをさせたくないという気持ちの表れでもある。どちらかではなく、二人を好きなのだ。だがこの結論が実を結ぶ日は来ないと気付いている。
◆◆◆
肉体的な疲労と精神的な疲労、不足をもう一方で補うにも限界がある。アカデミーの門で先生を待つこともなくなり、一緒に飯を食べる人もいなくなった。また一人の生活に戻っただけではあるのだが、癒やしのない生活はじわじわと心を蝕み、気持ちの切り替えが追いつかない。引き摺られるように身体の疲れが抜けなくなり、眠る時間も短くなる。たかが、恋だ。もっと酷い思いも味わったし、何故という疑問さえ浮かばない状態まで落ちたことだってあるのに、彼と付き合うまで二十年以上、知りもしなかった感情に振り回され続けている。
命の遣り取りをする生業だというのに気を取られていては碌なことがない。集中を欠いた結果は当然のように降りかかり雨の帳を裂くように山肌を駆けていた。受け止めきれない雨が地面の上を流れ、一足ごとに泥濘みへと沈み込むサンダルをチャクラで覆いひた走る。任務後の疲れた身体には冷たい雨が突き刺さり、どんどん体力を奪われてゆくのが分かった。元よりチャクラが減っていたのだ、そう長くは続かない。動けなくなる前に辿り着かなければと、一心不乱に足を動かした。
街道から逸れるように走る獣道へ分け入ると木々に囲まれた小さな小屋がある。国のあちこちには、各地へと任務に赴く忍達が不測の事態に避難出来るよう拠点が隠されており、ここはその一つだ。分厚い雨雲が覆う空は黒く、森の中は薄ぼんやりとしか光りが届かない。それでも真っ暗になる前に辿り着けて良かったと、解印を結んで中へ入る。少しでも水気を払おうとびしょ濡れのマントをバサバサ振ってみたものの大して変化はなく、諦めて戸口の横へと掛けた。まずは火起こしだと壁際に設置されているストーブへ火を入れる。張り付く手甲を引っ剥がし、両手を火にかざして温めながら緩く動かした。印が組めないと雨が止んでも出られない。ただでさえ予定外の滞在だ、少しでも回復するようにと湿ったポーチから取り出した兵糧丸を噛み砕いた。
雨脚は強くなるばかりで、大粒の雫がバタバタと屋根を叩く音を背景に時折薪の破裂音が混ざる。ストーブの上で温めていた鍋からじんわりと湯気が上り、鍋肌に沿った泡粒が踊り始めたのでカップを用意しようと腰を上げた時、微かに空間が揺れた。誰かが来たのだと脇にあったクナイヘ手を滑らせる。結界を解いたということは、同じ木ノ葉の忍だろう。だが、実際に入ってくるまでは気を抜けない。後ろ手に握ったクナイを見せないように戸口の方へ身体を向けた。勢いよく開いた扉から飛び込むように入ってきたのは、やはり木ノ葉の忍だったのだが、ある意味他里の忍が入ってくるより驚いた。
「すみませ……ん……」
いつもは頭の天辺で揺れるしっぽをへたらせて、ずぶ濡れの先生が立っていた。
マントから滴る水が土間を濡らす。突っ立ったままの足元を中心にして、黒い水たまりがじわじわと広がっていった。額当てを滑った雨が頬を伝い落ちて、思わず喉が鳴る。言葉をなくしたように瞳を丸くする顔と頬を濡らす雫は、彼の記憶を思い起こさせて一気に身体の熱が上がった。条件反射のように速度を増す鼓動を抑えきれず、クナイを握る手に力を込めた。忍としての得物は少しだけ心を落ち着かせてくれたので、静かに細く息を吐く。視界の端に入った動きに目を上げると、先生が一度閉めた扉をまた開けている所だった。戸口から吹き込む雨が顔に叩きつけられている。
「どうしたんですか?」
「ご迷惑なようなので出ます」
「そんなわけないでしょ」
慌てて立ち上がる俺を見て目元を歪める。そんな風に笑う人ではなかったのにと思うと胸が痛い。俺がそうさせているというのなら、いなくなるのは俺の方だ。外していたクナイホルダーを取り上げて足に着ける。まだ濡れたままの手甲は、ぐちゃりとした手触りで冷え切っていたが、気にせず填めた。
「何をしているんですか」
「気まずいのなら俺が出ます。先生は中へ」
広げて乾かしていたベストへ手を伸ばすとバシン! と扉を叩きつけた音が響いた。眉間に深い皺を寄せてこちらを睨み付ける先生が、ふーふー息を吐いている。剥ぎ取るようにして脱いだマントを思い切り振るので、部屋の奥にまで飛沫が飛んできた。出て行くのは諦めてくれたらしく、サンダルを脱いで板間へ上がるのを見てベストを羽織る。少しでも温まれたのは有り難い。戸口へ足を踏み出そうとしたら硬い声が聞こえた。
「出なくて良いです。カ……、あなたが平気なら一緒に」
俯きながら出された言葉をどう受け止めれば良いのか分からなかった。
ストーブの前でカップの茶を啜る。装備を外したアンダーだけの姿で向かい合うのは久しぶりだ。彼とは何度も、先生とは一度だけ。恋だ何だと浮かれていたけれど、先生との付き合いは外を出歩くことが多く、家へ行ったのは俺が逃げ出したあの日一度きりだった。家の中にいるようなリラックスした格好なのに、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む姿は記憶の中の二人とは重ならない。眉間に皺を寄せたり戸惑ったりという表情は見た覚えがあっても、これほどまでにあからさまで不機嫌そうな顔は見たことがなかった。誰かと一緒にいるのなら、楽しい嬉しいだけでは済まないことも出てくる。俺自身がかつて彼に抱いたように、負の感情だって芽生えて当然だ。でも二人ともそんな表情はほとんど見せたことがなく、付き合いの浅い先生はまだしも彼でさえ見せていなかったというのは関係の歪さと繋がっている。彼の遠慮がちな笑い顔と先生の屈託のない笑顔ばかり浮かぶというのは、俺達の不完全な関係を証明しているようだ。新しい顔を見せる目の前の人こそが、本当の彼なのだろう。ひょっとしたら先生もそうなったかもしれないが、そこに至るには時間が足りなかった。
嬉しい、と思うのは間違っているだろうか。彼にはこうであって欲しかったし、先生とはこうなりたいと願っていた。それを目の当たりにしては、薄らと笑いが浮かんだとしても仕方がないと思うのだ。ただしそれは俺の身勝手な意見でしかない。
「何が可笑しいんですか」
「先生が怒ってるなあと思って」
「怒ってるわけじゃないです。ただ、ちょっと痛いだけ」
痛いという単語を選択した胸中を思うとこちらも痛い。先生に自覚がなくともお互いに傷つけ合っているようなものだ。カップの水面を見つめる顔は曇っていて、必死で不機嫌な顔を取り繕っていたのだと分かり、笑ってないと泣いてしまうと叫んだ顔と重なった。これは最後のチャンスなのかもしれない。思いも掛けない偶然だからこそ縋ってみようかという気になった。
「話を聞いてもらえませんか」
下げたままの視線は上がらず、口元は引き結んだまま。それでも、否定されなかったことを肯定に変えた。
しんとした室内には雨音だけが響いている。うまく伝えられるだろうかと不安がるのはやめだ。余計なことを考えたり取り繕おうとすれば失敗する。泣きそうな顔で無理矢理笑っていた先生のように、俺もそのまま話せば良いのだ。
「好きな人がいます。最初は気付いていなかったけど、自覚した途端どうしようもなく必要な存在になりました。通じ合っていたとは言えないけれど、この先もずっと大切なことは変わらないし、忘れることもない。もう二度と会えなくてもずっと抱えていくと思います」
消えてしまった彼に会うことは出来ない。実際同じ人間だというのに、先生は俺に全く違う顔を見せていた。彼とは違う彼にしか好きだと告げられないのは哀しく、まるで自分の不甲斐なさをなぞっているようだ。それでも、先生には言っておかなければならない。二人で進む為には必要な行動だ。
「先生のことを好きだと言ったのは嘘じゃありません。今だって好きですよ。ただ、先生のことだけを好きとは言えない」
「……それって二股でしょ」
「合ってるけど違う」
「何だよそれ」
自嘲するような笑いを浮かべてカップを置いた。漸く上がった視線は一瞬だけ合わさったと思うと、両手で抱えた膝の中に沈んでしまった。潤む瞳は怒りよりも悲しさが滲んでいて、先生の苦悩を表している。憎んでしまえば楽だっただろうに、きっと俺のことを捨てきれないのだ。だからこそ、最後のチャンスをくれている。格好つけたり不安がったりしている猶予はなく、今すぐ全部吐き出すしか俺に残されていない。少しだけ力が欲しくてポーチの中に手を入れた。悩むことなどないのだと、前向きだった時の欠片がそこにある。皺の寄った紙の表面をそっと撫でて手を戻した。
「先生が記憶を失う前、俺達は付き合ってました。俺が好きなのはあなたです。記憶を失う前の、先生。二度と会えないかもしれないけど忘れることは出来ない」
「嘘だ」
間髪入れず飛んできた言葉に眉が下がる。そう言われても当然だ。誰にも気付かれなかった関係を教えてくれる人はいなかっただろうし、俺だって伝えなかった。告白した時にだってそんな素振りを見せるような真似はしていないのだ。信じる要素はどこにもない。
「本当なんですよ。俺達は付き合ってたし、俺は先生のことが好きでした」
「嘘だ」
「嘘は言ってません」
「嘘」
「先生」
俺達の間には形として残っているものが何もない。周囲の人間に言ったこともなければ贈り物をしたこともなく、二人の記憶は俺の頭の中だけなのだ。それでも、信じてもらわなければならない。
「証拠として見せられるような物はないけど、先生から俺に告白してくれて付き合い始めました。それで俺も先生のことを好きになって」
「嘘」
「先生」
「嘘言うなよ。カカシ先生は俺のことなんて好きじゃない」
膝の間から漏れてきた、くぐもった声に息が止まった。考えるよりも先に手が伸びて、膝を抱える腕を掴んでいる。動揺に震える指先が伝わってしまったかもしれないが、それでも構わない。
「先生なの? 先生だよね。思い出したの!?」
ゆさゆさ揺さぶっても、埋もれた頭を上げてくれない。身を乗り出して両手で掴む。今、確かに「カカシ先生」と言ったはずだ。先生なら俺のことはカカシさんと呼ぶ。俺をカカシ先生と呼ぶのは彼だけだ。掴む手に力が篭っても決して顔を上げようとしない。頑なな態度に彼だという確信が芽生えた。もう二度と伝えられないと思っていた言葉を伝えることが出来るのかもしれない。まだ湿った黒髪に額をつける。しっぽが当たって少し擽ったいが、懐かしい感触だ。耳を塞いで聞こえない振りをしても、くっついた額が振動が伝えてくれる。閉じられた腕の中に、抱えていた思いを流し込んだ。
「俺は先生のことが好きです。俺に告白してくれた先生が好き」
ピクリと動いた頭が嫌嫌をするように左右に揺れる。そうじゃない、本当だと膝を抱える彼ごと抱きしめるように腕を背中へ回した。囲い込んだ腕の中へ嘘じゃない、好きだと繰り返し囁き続ける。それでも彼は頷かない。
何度目かの遣り取りでとうとう伏せられていた頭が上がった。至近距離で見つめ合う瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「嘘ばっかり言うな。好きじゃないくせに」
「先生」
「だって、カカシ先生は好きなんて言ってくれたことなかった。好きになってくれたなら言ってくれたはずだ。俺は」
ぶわっと盛り上がった涙が決壊する。一度大きくしゃくり上げ、切れ切れになりながら声を捻り出す。
「あんたは、俺のこと、好きじゃなかったけど、俺は、好きだった」
いつも遠慮して控えがちに笑うだけ。期待や要求をしなかったのではなく、出来なかったのだ。何も言わない男がどう考えているのか分からずに、振り向いてくれるのを黙って待っていた。曖昧で微かなシグナルを受け止めることが出来ず一方的に不満を抱き、好き勝手に振る舞う男を前にしてどれだけの思いを押し殺していたのか。彼の苦しみを思うと、胸が潰れそうになる。包み込む腕に力を入れて覆い被さるように抱きしめる。
「ごめん、ごめんね先生」
「なんで謝るんですか」
「気付くのが遅くて、伝えられなくてごめんね。待たせてごめんなさい」
何も言ってくれなくとも待っていたのだと、好きだから諦められなかったのだと溢れる涙が教えてくれる。次から次へと流れ落ちる涙を拭ってあげたいけれど、勿体なくて手を解けない。黙って閉じ込められてくれるのは、俺の腕の中にいてもいいという証なのだ。二人の距離をなくすようにぎゅっと両手の輪を縮める。苦しそうに眉を顰めた先生が口を尖らせて呟いた。
「遅すぎるんだよ」
抱え込んでいた膝を解放して、躊躇いがちな手が背中に回る。しっかりと掴んで欲しくてぐっと抱きしめると、添えるだけだった手が強く抱き寄せてくれた。腕の中の頭を慈しむように何度も唇を落とす。くいとアンダーを引っ張るのでそっと腕を緩めると、濡れた瞳が柔らかく撓んでいる。目尻に溜まった涙を軽く吸うと、嬉しそうに頬が上がったのでそのまま口づけた。
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