◆各種設定ごった煮注意

解説があるものは先にご確認ください

 俺の知らない所にいるいつもの「イルカ先生」を見て、腹が立ったのか失望したのか興奮したのか、或いは期待してしまったのか。きっと全て正しくて、どれも選んではいけなかった。ただ俺は、自分が選んだ道が正しくなくとも修正する術は持っていなかったので、気付かない振りをして突き進む。彼が一番動揺し、俺が絶対に見ていない顔を見られる方法だからという言い訳はびっくりするほど稚拙で、いかに目が眩んでいたかを示していた。

 誰もいない火影岩の上で、沈み始めた太陽を眺めて時間を潰す。里中を照らす光は等しくともそれを受け取る形によって明るさは変わり、一つとは限らない。けれど、受け取る方が己の歪さを自覚出来ているかはまた別の話だ。彼は誰に対しても明るく照らしているのだが、どうして俺の前でだけくすんで見えるのだろうか。恋人なら一番近しい存在として他の誰よりも理解しているはずなのに、受付で報告書を提出するだけの忍よりも俺の方がずっと遠い。こちらに原因があるのだと言ってしまうのは簡単だが、だからといって解消する術など分からないのだ。惑う心は自然と相手の非を探り始める。
 上辺だけを信じていればその内本当に彼を好きになれたかもしれないけれど、心を覗き見るようになってしまってはもう戻れない。俺と他の人間に向ける顔が違うのは、恋する相手だからだろうと信じ込めるほどの単純さがあればもっと幸せだった。それをどんなに理解していたとしても、俺はどうしても引き剥がした後の顔を見てみたいのだ。この衝動が何なのか、後で理解できると信じたい。全て壊してしまっても、せめてそれ位の成果は欲しいと願っている。


     ◆◆◆


 混雑を外した受付は人気がなく、彼の仕事が終わるまであとほんの少しだが上がるにはまだ早い。報告書を提出して受付を出ると後ろからパタパタと足音が追いかけてくる。何度も聞いた音は耳にしっかり届いていたが、今日は気付かない振りをしてそのまま本部棟の外まで歩いた。どこまで追いかけてくる? もう諦めてしまうのか? 果たして自分はそれで良いのかと歩調を緩めた所に聞こえた声が、良くなかった。一度弱くなった足音がまた強くなって、止まらない俺に慌てたのが分かる。
「カカシ先生! 待って下さい」
「ん、なーに?」
「あのっ、今日はご一緒できませんか」
 俺を誘う日は、残業をしなくても済むように仕事を片付けているのを知っている。受付を出た背中を追いかけられるように、なるべく人が少ない時間に来て欲しいと何度も入り口を確かめながら待ちかねているのも知っている。俺だって本当は知っているのだ。
「今日は、先生の家が良い」
「えっ、俺ん家ですか?」
「ダメ?」
「いっ、いえ大丈夫です」
 照れくさそうな笑みへ応えるように浮かんだ笑いが、心を凍らせる。恋人といってもお願いをしたのはお互い一つずつ、二人とも同じ内容でとても細やかなものが一つだけだ。俺がした初めてのお願いは、最初で最後になるのかもしれない。

 仕事終わりを待って、商店街へ向かう。二人で買い物をしながら歩くのは仲睦まじい恋人同士になった気分で、隣から伝わる弾む空気が微笑ましい。つまみとビールをぶら下げて店先を冷やかしながらゆっくりと歩く。ありふれているようでいて俺達の間では初めての時間だ。彼の嬉しげな様子からは、恋人の願いを聞いて叶えることを喜んでいるとしか見えないのに、何故相手も同じだと思わないのだろうか。いつも誰かと笑い合い、人の心をなぞるのが上手な人だと思っていたのに、俺といる時は別人のよう。俺の中にあった「イルカ先生」という人が、すっかり分からなくなってしまった。

 ひょっとしたらこのままやり過ごせるかもしれないし、信じてみてもいい。歩きながら大事に抱え込んでいた思いは、玄関に入ったら吹き飛んだ。電気の消えた暗い部屋はあの日と同じで、振り返った彼の目がいつもと同じ色に戻っていたから分かってしまった。嬉しそうに細めるくせに、心は閉じたまま恋人である俺に何も望まず求めない。寛大な恋人を演じているが、心の中で何を飼っているんだ。その瞳が、心の中は空っぽじゃないと何よりも強く語っているだろうが。俺に願うことはあるのか、その声を聞かせてみろ。
 サンダルを脱ごうと前屈みになった背中を緩く押した。三和土にぶつかったビールがゴンと鈍い音を響かせて、片手をついて振り返った顔が驚きに彩られている。求めていたのはこれかもしれないと、腹の底が一気に熱くなった。満足そうに鳴る喉を押し殺して肩を掴み、蹲る体を仰向けに引っ繰り返す。指から落としたビニール袋が足に触ってカサカサと煩いので、邪魔をするなと押しやってゆっくりと膝をついた。戸惑った表情で見上げる人の髪紐を解いて苦し気に跳ねるしっぽを解放し、髪を梳きながら額当ての結び目へと手を辿らせる。括りを解いた手で自分の分も剥ぎ取って後ろへ放り捨てた。
 伸ばした手がまだ手甲に包まれているのに気づいて、くるりと反転させた手甲のプレートで熱を帯びた曲線をそっとなぞる。頬に触れた冷たい感触にビクリと全身を震わせ、怯えた瞳が助けを求めてきょときょと動いた。これで良いと満ちる腹と引き返せと騒ぐ胸をどちらも押さえられない。本当に見たいものが何なのか、知りたいことがこの先にあるのか、俺自身にも分かりはしないのだ。迷いは躊躇いを呼び、押し切ろうとする身体が熱を生む。ドクドクと鳴り響く心臓が一跳ねする度に、全身に興奮が伝播して喉の奥が痛くなった。飛び出そうとする何かを噛み締めるように顎に力を入れる。
「あ、あの」
「……うん」
「ま、待って下さい」
 三和土を上がった狭い廊下の上で、サンダルも履いたままのし掛られている。二人で買ったつまみもビールも袋のまま放り出し、思い描いていた夜とは全く違う景色に黒い瞳が揺れていた。何度も開いては閉じられる口が動揺を表していたが、そこから出るのは戸惑いの呻きだけで俺の望む物ではない。必死に言葉を紡ごうとする彼の上で手甲を外して廊下の先へ放ると、床板に当たった金属に高い音が跳ねて耳を刺した。びくんと震えた身体へ覆い被さりながら口布を下ろせば揺れる瞳が見開かれて、口元が緩む。
――それでいい。そのまま隠さないで。
「カ、カカシ先生、俺」
「うん」
 どうすれば良いか分からないと突き出された手のひらを掴んで口づけを落とす。真っ赤になった頬へ手を添えたらきゅっと乾いた唇を引き結んだので、人差し指を立てる必要はなくなった。



 大変下世話で情けないのだが、体がすっきりしたおかげで頭の方もすっきりした。もやもやぐるぐると身体中に渦巻いていた思いはとても単純な結論へと結びつき、あまりにもキレイに着地したことに驚いている。散々悩んで行動した結果、辿り着いた答えは一つしかなかった。彼と繋がって温かい身体を全身で感じ、苦痛に歪む顔も羞恥に染まる頬も快楽で零す涙も全て見た。彼が全てを曝け出し、全身で受け入れてくれることを何故こんなにも喜んで、かつ待ち望んでいたのか。閨でのみ見せる顔を得た充足感は、俺だけのものだという独占欲に直結して、最終的に行き着く先が恋心だと知らせてくる。彼が心に飼っている何かとは、自分がちゃんと彼の心に入っているのか、他の誰かを住まわせているのではないかと怯える弱さが生んだ疑念だ。肌を合わせることで通じる物もあり、自分が薄汚い大人であったことに少し感謝している。
 人間不信気味な俺と常に遠慮しがちな彼とでは、ずっとすれ違い続けただろうことが容易く想像出来てしまい、恐らくその先に待つのは別れだった。かなり控えめで分かりにくくはあったけれど、彼はいつも俺に色んな感情を見せてくれていたのだろう。自己主張の薄いアプローチは猜疑心が強い俺にとって不十分で、早く手を伸ばせるようにもっと強くもっと確かな物をと苛立ちばかりが募る日々。膨らみ続ける疑念が何によるものかを省みず、ひたすら彼だけを見て答えを探し続けるその行動こそが間違っていた。分かって思い返せば気付くことはたくさんあって、何故あんなにも囚われていたのか、今となってはもう分からない。

 薄く口を開いて寝息を立てる顔をずっと眺めていると、つい手を伸ばして触れたくなる。もう許可を取らなくも良いのだと確信した途端、次々と浮かぶ欲求をどう制御すべきか悩ましい。己の不甲斐なさにも腹が立ち、いい気なもんだと何度も手を引っ込めた。せめてもと髪を梳くと、想像していたよりも滑らかな手触りに唇を寄せたくなり、これじゃ変わらないだろうがと笑いが込み上げる。彼の隣は居心地が良くて、ずっとこの場所にいさせて欲しいと自然に思えた。あなたの願いも同じで、だから俺に告白してくれたんだよね? 反応が悪い無愛想な男にどうすれば良いのか戸惑っていたのだと言うのなら、俺達は同じだ。これからはもっと素直になって我が儘を言ってくれたりするのだろうか。新しい関係を期待して、隣で眠る恋人を腕の中に抱き込んだ。



 暗闇の中で期待したような劇的な変化はなかったものの、あれほど抱えていた疑念がきれいさっぱり打ち消されている。細やかな変化はあちこちにあって、仕事の後で行く居酒屋が彼の家へと変わり、またと手を振る場所が暗い夜道から陽に照らされた玄関へと変わった。相変わらず頻度が低いのは少し残念だが、それさえも俺を気遣う彼の気持ちだと思う余裕がある。逢い引きは途絶えることなく続き、いつしか任務後の受付へ向かう時間を楽しみにしていると気付いた。たとえ受付から出た背中に追いかけてくる声がなくとも、心配はいらない。お疲れ様でしたと言って少しはにかんで笑う顔は真っ直ぐに俺へと向けられているのだから、大丈夫なのだ。
2021/09/02(木) 16:35 三度目の恋でも COMMENT(0)
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